ブラジルから鉄鉱石を運ぶために商船三井がチャーターしていたパナマ船籍のばら積み貨物船「WAKASHIO(わかしお)」が、7月25日に「インド洋の貴婦人」と呼ばれるほど美しい島国のモーリシャス共和国のポアントデニーのサンゴ礁に座礁した。積み荷はなかったが、船の動力のために積載していた4000トンほどの燃料の重油のうち、1180トン以上が海上に漏れ出し、全長300メートルの船体は真っ二つに裂けた。ターコイズブルーの海がまたたく間に流出した重油で黒くなり、海岸に漂着した油状物でマングローブが覆いつくされていく勢いを見たモーリシャスの政府は、直ちに環境非常事態宣言を出して国際的な協力を呼びかけた。
世界各国の緊急対策チーム、国連の専門家チーム、ならびに日本からも国際緊急援助隊の6人の専門家チームが事故発生から1週間以内にそれぞれ現地入りした。海に流出した重油を回収するためのオイルフェンスには、自分たちの大切な海を守るために集まった住民らが自ら切った髪の毛も材料に使われた。その甲斐あって、現在では何とか海上に漂っている重油回収はほぼ終わった。一方で、海岸に流れ着いた油の回収は現地の方々も協力して日々人海戦術で続いている状況だ。海岸に打ち寄せた油状物の撤去にあたっては、畑から藁(わら)で油の流入を食い止めたり、サトウキビの葉をつかって油をすくい取ったり総出で作業が続いている。
1997年1月に日本海で座礁したロシアのタンカー「ナホトカ」号の重油流出事故の時は、福井県から石川県の沿岸一帯が重油で汚染されたこともあってか、当時日本のメディアは連日テレビ、ラジオ、新聞で報道していたが、今回モーリシャスが誇る希少なマングローブ林や多くの魚の生物、さまざまなサンゴ礁を有する湿地帯が壊滅的な危機にさらされている史上最悪の海洋汚染ニュースは、日本のメディアに登場する機会が少ないように感じる。重大なニュースには違いないが、新型コロナの影響で、日本から遠く1万キロも離れたモーリシャスに取材班を送るのが困難なことも、もしかしたら背景にあるかもしれない。
いずれにせよ、ナホトカ号の事故も、WAKASHIOの事故も、一番の犠牲となったのは重油で汚された海域や沿岸の生態系で暮らす「生き物」たちと、「水」そのものである。一旦汚れてしまった水を再び綺麗にするのは並大抵のことではない。例えば、天ぷら油(500ml)を一般家庭のバスタブ(300L)に注いて水を汚した場合、再び魚が住める水に戻すためには同じバスタブで560杯分もの綺麗な水で薄めなければならないという。マヨネーズ大さじ1杯(15ml)でさえ、バスタブ13杯分の水が必要なのだそうだ(神奈川県藤沢市下水道部 下水道管路課HP)。
ところが、地球の地表面内部、大気圏中に存在する水は、海、湖、川などからの蒸発→空からの降水→再び川などの地表流→土壌への浸透などを経て、地球上を絶えず循環しているものの、地球が生まれた45億年前から総量は全く変わっていないので、いったん水が汚れてしまえば綺麗な水がどんどん減ってしまうことになる。
内閣官房水循環政策本部事務局によると、この地球上の水の総量は、およそ14億立方キロメートル*で、内訳は、海水(97.47%)と淡水(2.53%)に分かれる。淡水のほとんどは南極と北極の氷や氷河として存在する水や地下水であって、人が容易に利用できる河川や湖沼等の水として存在する淡水は、地球上に存在する水の量のわずか0.008%**だそうである。太陽エネルギーによって海上や地表などから蒸発した水が雲となり、雨となって再び降り注ぐ、といったこの水循環によって、塩分を含む海水も蒸発する際に淡水化されたり、北極や南極に氷として蓄えられたり、深層海洋水となって世界の海を周回したりして地球上の水は維持されてきたのである。なので、私たちが利用している飲み水や生活用水などの淡水資源は、この大きな水循環のサイクルの中で地球が常に作り出しているものを利用していることに他ならないのである。なので、この水循環を健全に保つことが持続的な社会を築く上で極めて重要なことであり、地球上で暮らす私たち一人ひとりが毎日使う水についての理解を知識を深め、水を汚さないように、またすべての人が衛生的な水を利用できるようにアクションをとる責任がある。
日本でも近年、ようやく水循環に対する政府としての取り組みとして、「水循環基本法」が平成26年4月2日に施行された。これは、内閣に水循環政策本部長、副本部長、政策本部員を組織し、本部長には内閣総理大臣、副本部長には内閣官房長官及び水循環政策担当大臣、そして、政策本部員はすべての国務大臣をもって充てる、という錚々(そうそう)たる内容の法律である(第24条、第25条要約)。第3条には「水については、水循環の過程において、地球上の生命を育み、国民生活および産業活動に重要な役割を果たしていることに鑑み、健全な水循環の維持又は回復のための取組が積極的に推進されなければならない(原文ママ)」と記されている。
水の循環は、SDGsの169あるターゲットのうち、6.6「2020年までに、山地、森林、湿地、河川、帯水層、湖沼を含む水に関連する生態系の保護・回復を行う。」と、15.1「2020年までに、国際協定の下での義務に則って、森林、湿地、山地及び乾燥地をはじめとする陸域生態系と内陸淡水生態系及びそれらのサービスの保全、回復及び持続可能な利用を確保する。」に密接に関係している。ターゲットの期限が今年なので達成が難しいが、私たち一人ひとりが真剣に考え、取り組んでいかなければならない問題だ。
今日蛇口をひねって出てきた水は、45億年もの長い間、地球のあらゆるところを旅してきた水であり、今日手を洗うのに使った水は、また地球のあらゆるところに旅に出かけていく水である。健全な水循環の維持と回復を本当に心から願っているのは、対策チームを組織した内閣の大臣たちよりも、むしろ、他ならぬ地球そのものかもしれない。
パンチョス萩原
(*と**:サントリーのHP上の「水大事典」上では、総量は13億3800万立方キロメートル、人が利用可能な淡水量は0.01~0.02%と少し細かい記載であった)