会社経営では、最高経営責任者(CEO)がアクセルを踏み、最高財務責任者(CFO)がブレーキを踏む、と言われることがある。財務面を統括するCFOの言葉を理解し、信頼してCFOのアドバイスを実践できるCEOがいる会社は本当に強いと思う。私も以前、CFOとして一つの会社の財務をハンズオンで任された時期があったが、その時、夜も眠れないほど常に頭に浮かんだのは会社の財政面の悪化による資金繰りと、より利益を長期的に作り上げる組織体制の構築だった。CFOにとっての真骨頂とは何か、と問われれば、私はその時の経験から、確信を持って「財政安定化」と「ガバナンス」と言うだろう。
そんな財政安定化とガバナンスを実践した、「江戸のCFO」がいる。山田方谷(ほうこく)だ。
山田方谷は、1805年、幕末に備中松山藩(現在の岡山県高梁(たかはし)市)に農商の長男として生まれた。幼い頃から聡明で5歳の頃から幕府の官学である朱子学を学びはじめ、将来は学問で身を立てようと思っていた13歳の時に母親を、翌年に父親を相次いで失ったため、農業と油商で生計を立てる青年期を送った。しかし、藩から優秀さを認められていた方谷は、20歳の時に当時備中松前藩藩主の板倉勝職(かつつね)より奨学金を受け、藩校有終(ゆうしゅう)館で学ぶことを許された。そして24歳の時に武士の身分と有終館の会頭(学長に次ぐ職位)を与えられた。29歳の時に江戸へ遊学し、ここで陽明学と佐久間象山(後の儒学、洋学、兵学などに通じ幕末の志士たちに大きな影響を与えた人物。坂本龍馬や吉田松陰もその門下生)と出会う。江戸で視野を広げた方谷は2年半後に備前松山に戻り、再び藩校で教鞭を執るが、自宅でも「牛麓社(ぎゅうろくしゃ)」という私塾を開いて、武士以外の階級の人々にも学問を教えた。
江戸遊学中に塾生たちから、各藩が財政難に苦しんでいる実態を聞いた方谷は、備中松山に戻ると、健全な財政を実現するための提言をまとめた「理財論」と藩政を担う武士たちが持つべき道徳と倫理を説いた「擬対策」を執筆した。
「理財論」の中で、方谷は、まず財政再建に取り組むリーダーが持つべき心構えを説き、中国前漢の時代の儒者董仲舒(とうちゅうじょ)の「義を明らかにして利を計らず」という言葉を引用して、「財政が苦しい時は、目先のその場しのぎの利益を追うのではなく、風紀、綱紀、法令などを整え、長期的な視野を持ち、何が大切かを考えれば組織が正しい方向に向かい、おのずと利益が出るようになる」と教えた。今の時代で言えば、株が安い時に買収し、高くなったら売却することを繰り返し行なうファンド(投資会社)が、いわゆる「モノ言う株主」として、買収した会社に対して、短期的なスパンでの株価上昇となる政策として赤字ビジネス部門の廃止や組織の統廃合、利益重視の役員起用などをゴリ押しするが、たいがいの場合、社内の体制がついていけず、経営陣に不満を持つ社員も増え、会社全体のモチベーションの下がり、業績がさらに悪化してしまう。そうではなく、社内のガバナンスをまず立て直し、社員ひとりひとりが倫理的にどう行動するかを考えていけば、自然といい会社になって利益も出る、という感じがぴったりくる。また、「擬対策」の中では、方谷はさらに藩のガバナンスに言及し、藩が財政難に苦しんでいる原因が、役人らによる「賄賂」と「贅沢」にあるとし、自分の利益や短期的な利益を追求する諸悪の根源であるこれらの不徳をなくすための公明正大なる藩政刷新こそ、義を尊ぶ武士の本分であると教えている。
「理財論」も「擬対策」も当時の為政者に向けた強烈なリーダーシップ論であり、財政改革と構造改革の本質をついている。方谷は大きな困難に直面しつつも、藩財政再建と構造改革のための政策を推し進めていった。簡単に功績をまとめてみたい。
- キャッシュフローの改善
まずは大赤字の藩の財政立て直しをすることから方谷の改革は始まった。「加賀120万石(ごく)、薩摩73万石、仙台62万石…」など、江戸時代は大名の経済規模が米の収穫量(石高)で表わしていたが、この石高にはカラクリがあった。幕府が認めたオフィシャルな石高である表高(おもてだか)に対し、実際の石高を内高(うちだか)が存在し、各藩はこれら2つを使い分けていた。表高は幕府から当初認定された石高なので半永久的に変わることがないのだが、実際には毎年収穫量が変動するために、各藩は領民の税額を内高で算定していた。備中松山藩は表高は5万石であったが、内高は2万石にも満たなかったが、幕府から課される軍役や大名家としての格式という見栄をとるために敢えて5万石を名乗り続けた結果、方谷が藩主板倉勝静(かつきよ)から藩の元締役兼吟味役(財務責任者と執行役のようなもの)を拝命し任務についた時の藩が抱える借金は10万両(約300億円)あり、利子返済も困難なほどに財政は破綻寸前であった。方谷は債権者である大阪の商人のもとに自ら足を運び、藩財政が破綻寸前であることや、今後の財政改革の具体策を提示し、返済期限の50年延長と利子の免除を要請した。正直に実情を語り、頭を下げたことで大阪の商人たちから、これら50年の期限延長と利子の免除を取り付けた。この借金は、方谷が実施した種々の経済政策によるキャッシュフロー改善により、50年の期限を待たずに10年で完済された。
- 財源確保のための産業振興策
方谷は、米生産に頼るのを止め、備中鍬(びっちゅうぐわ)・葉タバコ・茶・和紙・柚餅子(ゆべし)などの特産品の生産を奨励して専売制を導入し、商品をブランド化した。
- 物流改革
無駄なコスト削減としては、大きな物流改革を行なった。当時は特産品を江戸に運ぶには、大阪の商人に委託して捌(さば)いてもらっていたが、大阪商人の中間マージンが大きく、利益が出ていなかった。方谷はこれらの商品を直接藩が購入した輸送船で江戸に届けることで中間マージンを大きく削減することで高い利益の確保に成功した。
- 貨幣改革
当時、財政難のために乱発されていた兌換(だかん)紙幣の藩札が甚大なインフレを起こしており(逆に言えば、あまりに刷りすぎて藩札の価値が全くなくなってしまった)、方谷は藩札を額面通りの金額で通常の貨幣と交換し、回収した膨大な古い藩札を民衆の面前で焼き払った。そして財政状況に応じ、新たな藩札を発行することとし、藩札の貨幣価値と民衆からの信用回復を図った。
- ガバナンス
方谷は、質素倹約策として、衣服は絹ではなく綿を着ること、足袋は9月から4月でそれ以外は裸足、男女とも髪結いは自分ですること、期間限定で藩士の給与を一割カットすること、役人対する接待や贈答を禁じること、奉行や代官に届いた物品などの贈答品は、入札を実施して希望者が買い取ること、役人が村を巡回する時には一滴の酒も振舞ってはならないこと、などの内部統制を藩と民衆の間で徹底した。
当然なことながら方谷は、既得権を持ち、改革で自らの利益が目減りしてしまう藩士や民衆からの大きなバッシングにあう。しかしながら、そんなの中にあっても改革をすることができたのは、彼の上司である藩主板倉勝静からの絶大な信頼と計らいがあった。勝静は、藩すべての財務責任者ガバナンス責任者とが方谷であることを明言し、その一切の権限を与え、「方谷のことばは勝静のことばだ。彼に従え」とすべての部下たちに伝えつつ、自らも方谷の提言どおりに粗末な綿の着物に着替えて質素な生活を送った。
方谷はCFOとして財政安定化として「理財論」、ガバナンスとして「擬対策」を通じて組織の改革を行なった孤高の人であり、勝静はそのCFOのいう言葉を傾聴することができた素晴らしいCEOであった。
参考文献:「江戸のCFO 大矢野栄次 日本実業出版社」
参考サイト: Guidoor Media 小さな藩の偉大な聖人~山田方谷
パンチョス萩原 (Soi コラムライター)