「女性は生む機械」、「北方領土を取り返すにはロシアと戦争を」、「復興以上に大事なのは高橋さんでございます」など、政治家による「失言」は後を絶たない。名の知れた芸能人や大企業の社長もツィッター上でつぶやいた一言が大炎上し、番組の降板や辞任に陥るケースも多い。ほとんどの場合、失言した後に本人に対する非難が殺到し、本人が謝罪し発言を撤回または発言の意図を弁明するパターンだ。
自民党は昨年、「失言や誤解を防ぐには」というタイトルで会見対策マニュアルを所属議員や秘書に配布した。内容は記者会見時の注意事項がメインで、「報道陣の前での発言は放送の尺や文字数の関係で発言が切り取られたりタイトルに使われる場合があるから、そのことを意識して」とか、「発言は各社の方針に沿ってまとめられたり編集されたりするから、自らの発言に対しては慎重に」などと、「ついつい口がすべって」ということがないように喚起している。要するに「発言する前に内容をよく考えてからしてください」ということだ。
しかしながら、失言というのは「よく考えてから発言」しているために起きているのだと思えてならない。
政治家がウケを狙おうとしてその場の雰囲気でついうっかり言わなくてもよいことを言ってしまうことは確かにあるが、ツィッターなどSNS上のコメントは、思わず手がすべって書いてしまった、などは到底ありえない。芸能人や有名な医者、事業家などが時折SNS上に書き込む過激なコメントや、対象者を傷つけかねない非常識なコメントを拝見する限り、自分が伝えたい内容を「十分に考え抜いて言葉をあえて選んで」書いているように思える。書いたコメントに対し、視聴者が共感してくれて「いいね!」をたくさんくれるだろうと期待しての発言だろうが、一転非難が殺到して炎上すると訂正や謝罪、コメントの削除となる。
つい最近もレタスクラブが科学的に何の根拠もないのに、唐揚げのことを「毒めし」と称し、「やめて成績アップ!子供が天才になる食事」なる記事を掲載したが、殺到したおびただしい批判に対し謝罪した。ただこの場合、レタスクラブの謝り方が「唐揚げを否定してしまい申し訳ない」だったので、「ニセ科学記事をさも本当のように載せたこと」に対して激怒した読者たちの怒りはいまだに収まっていない。
SNSの視聴者や読者に受け入れられない差別や過激な思想、根拠のない断定、ある特定の人や組織に対する攻撃や中傷などのコメントを何故人は書いてしまうのか。私の個人的な思いとなるが、心理学的な観点から見た場合、「紋切型バイアス」と「合意推測バイアス」がある気がしてならない。
「紋切型バイアス」とは、どのような人も必ず持っている心の偏りで、性別、年齢、職業、年収などで相手のイメージをステレオタイプに根拠なく作り上げてしまう傾向のことである。「女性は~すべきだ」「年寄りはみんな~だよね」「まったくおじさんって~しないよね」「フリーターなんだから~にちがいない」などの発言は、その人がその対象に持っている偏った概念であり、本来はそうではないこともある。
「合意推測バイアス」とは自分の考えは正しく、その正しい考えに人は必ず賛同するだろうと思う傾向である。ビジネスで成功を収めた優れた企業のトップや、歌がうまく、主演した映画が大ヒットして素晴らしい偉業を芸能界にもたらした有名な俳優などが決して新型コロナ問題に精通していない場合も多いのに、それぞれの分野で高い評価を得た自分の考えは正しいと考える傾向により、ゲスト出演したニュース番組などで専門外の感染者数拡大の原因というテーマなどにおいても時に空気を読まない持論や少し言い過ぎかなと思えるような体制批判を展開してしまう。
冒頭の政治家の発言も、それぞれ、ジェンダーの偏見、自らの考えの押し付け、聴衆も自分と同意見だろうという感覚から発せられた言動であろうが、自分としては正しいと思える主張や正義も、多様な考えと信念を持つ人々に必ずしもそのまま受け取られることはなく、社会道義的に許容できる内容でなければないほど聞く側にとって拒絶されることとなる。失言しないように「何を発言するか」、ということを考えるよりも、まず自分の考え以外にも多くの考え方があり、自分の考えにも間違いがあるかもしれない、ということ、そして何よりも「自分の発する言動によって傷つけてしまう人々がいないだろうか」、ということを想像力をもって考えることが大切だと思う。
SDGsの5つの主要原則の一つに社会包摂性(しゃかいほうせつせい)がある。人権の尊重とジェンダー平等の実現を目指し、社会的に弱い立場にある人々をも含め、誰一人も取り残されることなく、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、地域社会の一員として取り込み、支え合う考え方のことである。反対語は社会的排除だ。お互いがお互いをリスペクトし、支え合って生きていく社会を築きたい。
「ことば」は文字通り「言(こと)の葉(は)」と書く。私たちの使う言葉が美しければ、私たちは瑞々(みずみず)しい葉でいっぱいの木のようなものだ。もうじき落ち葉の季節が訪れるが、もしも枯葉のひとつひとつが鋭くナイフのように尖っていたならば、とてもじゃないが私たちは街路樹の下を歩けない。差別的・暴力的・軽蔑的な言葉はそのように人の心を傷つけてしまう。
パンチョス萩原(Soiコラムライター)