休日なので久しぶりに、台東区の上野界隈をてくてくと散歩をしようと思った。
上野の不忍池(しのばずのいけ)のそばにある洋菓子メーカーのアウトレット店で買い物をした後、上野公園に立ち寄ると、そこそこ多い人々が初秋の休日を楽しんでおり、季節のキンモクセイがあちらこちらで甘い香りを漂わせている。コロナ禍前と同じように大道芸人やストリートミュージシャンのパフォーマンスよろしく、すれ違う人々がマスク姿でなければ日常の東京が戻ったような錯覚を起こす。
現在の上野公園(正式には「上野恩賜(おんし)公園」)のあたりは、江戸時代から東叡山寛永寺の敷地として、広大な自然を有し、庶民たちの花見の名所として親しまれてきた。明治に入ってすぐに、その上野公園の一帯が当時の軍政を司る兵部省によって陸軍病院と陸軍墓地の用地として決定された。しかし、オランダ人軍医のボードワン博士がその案に猛反発をし、自然豊かな公園をつくることに熱弁をふるったおかげで、明治9年(1876年)に太政官布達によって上野の山一帯の54万㎡の広大な土地が日本で初めての公園として登録され、翌年の明治10年(1877年)10月に開園されたのである。同じ年には高村光雲による「西郷隆盛像」も建立されて、公園は賑わいを見せ始めた。陸軍病院や墓地が出来ていたら、今の上野駅や数々の文化施設もなく、上野の街は全く違った道を歩んでいたところである。「公園」という言葉も上野公園が発祥である。
時は文明開化の時代、開園後には、西洋からの文化が押し寄せたこともあって、多くの芸術家たちの輩出と近代化によって、現在「国立科学博物館」、「東京国立博物館」、「東京藝術大学」などで知られる多様な文化施設が次々とできた。 、明治15年(1882年)には「上野動物園」も開園し、明治時代にできた。
大正12年(1923年)は105000人もの尊い命が奪われた関東大震災が東京を襲い、両国、浅草、上野周辺の下町は甚大な被害を受けた。上野公園は建物の倒壊や火災がなく、庶民らの避難場所となった。
第二次世界大戦後、混乱の中で日本は復興を目指すことになる。上野界隈では、戦後すぐに進駐軍の物資を売る闇市がいまのアメ横地区にでき、昭和30年代の高度経済成長に入ると上野駅は東北や北陸から集団就職でやってきた若者たちの玄関口となった。また、文化的・芸術的発展も進み、現在世界遺産に認定されているル・コルビュジエの設計による「国立西洋美術館」が開館する。彼の弟子であった前川國男は、師の建物の真正面に「東京文化会館」を建築、クラシック演奏やバレエ公演などが行なわれるコンサートホールを持つ。「上野の森美術館」も昭和47年(1972年)に開館している(上野文化の杜HP)。
建物が多く建てられる一方、昔からの自然も多く残され、公園内に大きな枝をはるサクラ、ムクノキ、イチョウ、タテカンツバキなどの多様な木々のおかげで、多くの鳥が生息し、生態系を維持している。
今年で143年の歴史を誇る上野公園であるが、明治から令和までの激動な時代の移り変わりの中で数えきれない来園者のそれぞれの人生に憩いと癒しを与えてきた。、東京都は上野公園をさらに発展させるために現在再生整備計画を進めている。次の世代にも上野公園は心の拠り所として存在し続けるに違いない。
初めてパンダを見た日、不忍池でボートに乗った日、花見を楽しんだ日、噴水を眺めた日、そぞろ公園内を歩いた日。上野公園を歩けば、そんな心ときめいた日々の一コマ一コマを思い出す。
参考サイト:
東京都建設局 上野恩賜公園 HP
https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jimusho/toubuk/ueno/index_top.html
パンチョス萩原 (Soiコラムライター)