全国有数の「はんこ」生産県である山梨県の印判用品卸商工業協同組合や、はんこ屋21の「はんこの歴史館」の資料によれば、印章、すなわち「はんこ」は既に紀元前7000年~6000年くらいにはメソポタミア地方で使用されたらしい。
一般的なイメージの「はんこ」以外に、指輪も「はんこ」替わりに使われていて、紀元前5世紀~2世紀に多く用いられ、ローマ法王も公式に使用していた「漁師の指輪」なども、重要書類が入った封筒を閉じるために封蝋(ふうろう)を垂らし、指輪の印章で封印して、確かにその指輪をしている本人が認めたものである証としてきたのである。はんこや印鑑のことを “seal(閉じる、封印する)”と英語で言うのは、この指輪による印章封印の名残なのかもしれない。
日本人が「はんこ」を使いはじめたのは今から約2300年前である。その頃の中国(後漢時代)で紙が発明されたのをきっかけに書物に捺印する習慣ができ、それが日本に伝わった。学校の歴史の授業で習った、後漢の光武帝時代、時の中国から倭奴国(日本)に送られた「金印(漢委奴国王印 かんのわのなのこくおういん)」は有名だ。その後日本の歴史から「はんこ」は一度姿を消し、再び江戸時代に登場し、今に至る。
そんな長い歴史の「はんこ」であるが、目下、河野太郎行政改革担当相が、行政手続きの「脱ハンコ」に向けて取り組んでいる。目指しているのは9割以上の行政手続きで使用されている「はんこ」を廃止し、デジタル化を推進することだ。政府は「はんこ」を「時代遅れの押印文化の慣習」としているが、「デジタル化推進とハンコ廃止は別物だ」と山梨県知事の長崎幸太郎氏をはじめ、多くの著名人、ひいてはハンコ業界も反論し、議論はヒートアップの様相を呈している。
問題は、「デジタル化をいかに進めるか」、ということで、そのために「はんこは本来何のために押すのか、今後どのような形で同様な目的を達しつつ承認システムを運用していくか?」という点にあると思う。
デジタル化が進んでいる中国では、今でも行政はすべての公文書に「はんこ」を押しているが誰も廃止など言い出していない。日本の場合、「実印」は身分証よりも重要な存在となっていて、行政から登録を受けることにより、所持者本人の法的効力を証明するものとなるが、この「はんこ」と行政の手続きや会社内部の承認において使用されるシャチハタ印などの「はんこ」を分けた議論にすべきであることは明らかだ。
デジタルフォーメーションを加速化し、紙の文化から電子媒体へ移行させ紙資源の節約や業務の効率化を図るためには、「はんこ」だけなくせば良いものということではない。紙の領収書や請求書を含めたあらゆる文書の電子化を進めることが目標となる。これらのものを残した中で「はんこ」を廃止したとしても、「はんこ」が自筆のサインに代わるだけになってしまうかもしれない。紙のデータ保管に関する法的な整備と併せてこの「脱はんこ問題」は進められる必要がある。
契約書に「はんこ」がないという理由だけで、本人に書留で書類が送り返され「はんこ」を押して返送する。机の上に普段から「はんこ」を置いておいて、「俺がいないときに承認が必要な書類には、コレ、押しといて」と上司が指示を出す…。本来「はんこ」とは本人が「ここに書いてあることを確実に理解し、この通りに行ないます」とか「確かに責任を持って承認します」とか、自らの役割に沿った責任を表明するものだと思う。
「はんこ」に代わって本人の意思を動画で記録しておけば上述の郵送などはなくなるだろうし、本人が何も見ていない資料に形だけ押した「はんこ」に何の意味もない。ここに「はんこ」について再考し、今後の行動を変えていく(チェンジマネジメント)の意義がある。
いかに「脱はんこ」を成功させ、デジタル化したとしても、長い歴史で使われ続けてきた「はんこ」が持つ本来の意味をなくしてしまってはいけないのである。
パンチョス萩原 (Soiコラムライター)