素晴らしい文章と洞察力に触れた、と思った。
イギリスの科学ジャーナリストのEd Yong (エド・ヨン)氏がThe Atlanticに寄稿した”How the Pandemic Defeated America“ (「パンデミックはいかにしてアメリカを打ち負かしたか」)を読んだ。 ちまたに溢れている新型コロナ関連の記事である。一般的には「世界で蔓延して1800万人以上が感染している新型コロナは…」とか、「私たちの日常生活をガラリと変えた今回の新型コロナウィルスは…」とかいう始まり方をするものだが、Ed Yong氏は科学者の目から見たまま、冒頭こう始める;「どうやったらそんなことができる? 塵(ちり)の数千倍も小さい超微粒子が、この惑星で最も力強い大国を屈服し、屈辱を与えるなんてことが…」。
思わず興味をそそられた。Ed Yong氏の記述は大変な洞察に満ちており、非常に説得力のある根拠に基づいているので、お時間がある方、興味のある方はぜひお読み頂ければと思うが、私が記述と全く関係ないところで今回改めて感じたことがあった。それは新型コロナウィルスに対する英語の表現と、日本語での表現の違いである。今日は感じたままにそのことをお伝えしたい。
殆ど論文に近い今回のEd Yong氏の記事では、新型コロナウィルスに関して使用されている英単語は、主に ”outbreak” と ”spillover” である。Outbreak は訳すれば「外に拡がる」であり、spillover は「溢れ出る」という意味である。すなわち、英語圏の考え方は、「ウィルスが中心地から外側へ拡がり、溢れ出ていく」という発想がベースとなっており、水面に葉が落ちて同心円に波紋が広がっていくようなイメージが浮かぶ。
対して日本語では、ウィルスに「感染」するという表現が一般的であり、どこから来たのかはわからないが、ウィルスが自分の体に外側から入ってくる、という受け身の表現をとっている。「蔓延する」という表現も自分たちがいる空間上にその存在を確認する、という意味では受動的表現である。 要するに向いている矢印の向きが逆なのである。 反論として英語でも感染を表す単語に “infection” があるが、これは体内で「作用する」という意味合いの方が強い(語源も in+fect(to make))ので、日本語にある「感染する」という状態のみを表す受動的表現の意味合いとは少し毛色が違うと感じる。
あくまでも想像に過ぎないが、欧米人には、ウィルスなる悪いものが外側へ拡がっていく中であらゆる禍をもたらしていく、だからそれに立ち向かう、という発想がoutbreakや spilloverなどの表現を通して表されており、それは古来ギリシャ神話に登場するパンドラの箱を開けてしまったためにあらゆる悪がこの世に溢れ出た話や、悪に手を染めたものは容赦なく裁かれるという旧約聖書の父なる神のような発想に由来するために、トランプ大統領のように「誰がウィルスをまき散らしたのか?中国が陰謀で世界に拡げたのだ!」という考え方が生まれているように思われる。
それに対し、日本人には森羅万象のあらゆる事象、震災や今回の新型コロナウィルスのようなものもありのまま内側に受入れ、最善を尽くすという考え、また母なる菩薩に慈悲を頂き恩恵を受けようとする発想が根底にあるのかもしれない。今年の2月にダイヤモンド・プリンセス号で新型コロナの集団感染が報道された時に「いったい誰がウィルスを持ち込んだのか?処罰せよ!」という報道が果たしてあっただろうか?恐らく香港に停泊した時に乗客が持ち込んだのであろうが、日本での報道では、ウィルスの怖さと懸命に戦う医療現場の様子が大半で、乗客らが感染した原因を徹底調査したニュースを私は見たことがない。
ダイバーシティ(多様化)という言葉が今のような意味合いで初めて使われだしたのは、アメリカで公民権法が制定され、黒人差別の撤廃運動が日の目を浴び始めた1960年代に遡る。それから半世紀がたち、日本でも未だ不十分ではあるが、ようやく女性の活躍や社会的弱者に対しても日常の生活に普通に見られる風潮になった。 本当の意味でのダイバーシティを語る知識も資格も私にはないが、自分と違う他者のことを理解し受入れるという意味では、日本人の受動的な考え方・気質こそ多様化していく社会を作り上げるのに必要なものではないだろうか。
パンチョス萩原
How the Pandemic Defeated America by Ed Yong https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2020/09/coronavirus-american-failure/614191/