金閣寺と銀閣寺 【SDGs 気候変動】

   美大で学んでいた時の教養科目に「環境学」があった。教えてくださったのは渡辺堯(たけし)教授で、日本の電波天文学の第一人者である。純粋に絵を描きたかった学生らにとっては、単位1つのために3日間もぶっつづけに難しい講義を受けなければならないのは辛かったのであるが、渡辺教授曰く、「世に溢れる迷信、偽科学、偏見、政治的思惑に基づく妄論、暴論に惑わされない知性を科学を持って養うことを目的とした授業」ということであった。 結局3日間で宇宙物理学、天文学、地質学、気象学、航空力学、電子工学、光学、量子力学などからさまざまな難しいことを教えて頂いた訳であるが、大部分は単位取得試験が終わったとたんに、残念ながらあっという間に忘れてしまった。今日はそんな授業の中で取ったノートを見ながらこのコラムを書いている。

   渡辺教授の授業で特に興味深かったのは、地球環境の歴史であって、これはしっかりとノートに内容が書きうつされている。地球には氷期(寒い時期)と間氷期(暖かい時期)が10万年の周期で訪れるということだ。地球は中心軸(北極点と南極点を結ぶ地軸)が23.5度ほど傾いた状態で太陽の周りを廻っているが、なんでもこの軸の角度が木星や土星の引力の影響を受け、少しズレることで太陽を廻る軌道にも変化が起き、北極・南極に照射される太陽量も周期的に変わり、地球の地表温度が変わるということがわかっているらしい。これは20世紀に入り、セルビアの地球物理学者ミルティン・ミランコビッチ氏によって発見された。すごい発見だったので、ミランコビッチ氏の肖像はセルビアの2000ディナール紙幣にも使用されているほどだ。 

   地球上の生物は、この大きな氷期と間氷期のうねりの中で栄枯盛衰を繰り返している。 今から5000年前に古代の四大文明がそれぞれの地域の大河流域で同じ時代に栄えたのは、地球の氷期に関係があるという(およそ1万年前の最後の氷河期のあと、5000年前まで温度が上昇し続け、それが終わるとまた寒い乾燥期となり、農地に適した土地が減少したために人々が一箇所に集まることで人口の集中化が生まれたことにより文明が発達した)。 その後温暖化とともに、人々が一極集中であった地域から散らばっていくのだが、やがて3500年前ほどに再び寒冷期が訪れ、暖かい地域を求めて世界同時多発的に民族が移動したのである。日本史も世界史もただ年号を覚えるのも良いが、その当時の気候がどのようなものであったかと合わせて覚えると、とても理解しやすいように思える。

   日本でも弥生時代以降は、100年単位でその当時の気候がどのようなものであったのか、という研究が進んだ。例えば、平安時代後半~鎌倉時代~室町時代前半は日本はとても暖かかったことが分かっている。温度計もない時代なのに何故?ということになるが、地質を科学的に調べたりすることはもちろんであるが、当時読まれた和歌や書かれた書物、天皇の行事の様子や花の開花時期、渡り鳥の飛来記録なども含めて分析をするのだそうである。 室町時代後期~江戸時代初頭は、それまで温暖であった日本がいきなり寒い時期に突入した時期にあたる。室町時代は約180年間に渡って続いたが、前期と後期の建造物を見ると、いかに日本の気候が変化したのかが顕著にわかる。金閣寺と銀閣寺だ。

   京都の金閣寺(鹿苑寺)は、応年4年(1397年)に足利義満が建立した。建築様式は平安時代の代表的な建築物である平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂などに見られる「寝殿造(しんでんづくり」」である。寝殿造の特徴は、外壁がほとんどなく、日中はすべて柱と柱の間にある開閉式の蔀(しとみ)を開けっぱなしにして、外からの風を室内入れる開放的な作りである。小中学校の歴史の授業では、寝殿造は貴族が暮らす大きくて豪華絢爛な屋敷、みたいなことを教わったが、それでも寒ければ風がスース―するこんな家に一年中住めるはずがない。足利義満が金閣寺を立て、金箔で建物を覆った背景には単なる金持ちとしての見栄だけでなく、温暖な気候による心の余裕があったのではないかと拝察する。

   一方、金閣寺から約100年後の銀閣寺(東山慈照寺)は、文明14年(1487年)に足利義政によって建設が開始され、彼の死後、延徳2年(1490年)に完成して出来た菩提寺である。建築様式は「書院造(しょいんづくり)」で間仕切りが多いのが特徴で、座敷、床の間、付書院、棚、角柱、襖、障子、雨戸、縁側など、現代の建築にもみられる要素が含まれており、江戸時代まで武家屋敷などで見られた様式である。東山文化の真髄たる「簡素枯淡の美」を映す建築物として有名となったが、温暖な気候が寒冷期に入ってから建てられているために、風通しもよく、屋根も緩やかで煌びやかな金閣寺からたった100年の間に、防寒に優れ、雪を配慮した勾配のある屋根を持つ銀閣寺にいきなり建物様式が変わっている。銀閣寺建立の少し前には、室町幕府管領家である畠山氏、斯波氏の家督を争う騒動に始まり、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展した後、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に拡大して11年間も続いた応仁の乱が起きている。

   人は気候が寒くなると、体温が奪われ、代謝が落ちてしまうために交感神経が活発となり、気持ちもこわばることで、民衆の騒動や百姓一揆などと寒冷気候との相関が高い、と渡辺教授は言っていた。なるほど、南北朝時代や戦国時代の混乱は、本当に気候変動の影響があったのかもしれない、これは試験に出るかもしれない、と私は、金閣寺と銀閣寺の建築様式や時代背景を必死で記憶した覚えがある。しかし、それから7年後の2016年11月9日の読売新聞に、東京大学大気海洋研究所の研究記事が「平安、戦国の動乱、“寒冷“が原因?」というタイトルで載っていた。どうやら動乱が起きたのは寒冷が本当に関係しているかもしれない、という内容だ。2009年当時、授業の中で同じことを言っていた渡辺教授に改めて敬服する次第である。

   お盆ウィーク中も日本列島は、酷暑に見舞われ、日中は外にも出たくない暑さに見舞われている。また昨今は想定外の異常気象による自然災害が起きており、温室ガス効果による地球温暖化が原因ではないかとの声も多い。SDGs 13の目標である「気候変動及びその影響を軽減するための緊急対策を講じる」には、単に地球温暖化をなくす努力をしよう、というだけではなく、「自然災害に対する強靭性(レジリエンス)及び適応の能力を強化しよう」という行動目標がある。

   天気や気候を自分で変えることはできないし、災害を防ぐことにも限界はある。人類が歴史上どのように気象変動に適応性を持って対処したのか、を改めて学び直し、現代にも活かせる手掛かりを見つけたい、と思う。

パンチョス萩原