ルノー君の思い出 【SDGs 共感】

   正確にいつだったのかは思い出すことができないが、もう20年近く前のことだ。今でも忘れられない思い出がある。

   その当時勤めていたフランス外資系企業でベルギーのブリュッセルに各国の経理担当者が集まる出張があり、私も出席した。出張日程は2日間であったが、私は帰国する前にパリ観光をしようと思いついた。具体的な計画はぜんぜん立てていなかったが3日間くらいをを考えていた。そのことをブリュッセル滞在中に同僚たちに話すと、その場にいたパリ本社から参加していた幹部の方がリーズナブルなホテルを予約してくれた。パリ5区と6区にまたがるカルチェ・ラタン地区の「Monge(モンジュ)」というこじんまりとしたプチホテルだった。

   スマホやWi-Fi、Googleマップなどまだ存在しない時代、住所と電話番号だけを印刷して渡してくれた。最寄り駅はリュクサンブール駅とある。私はパリのガイドブックに載っている地図に駅とホテルの住所あたりに目印をつけた。

   出張が終わり、ブリュッセルから一人でフランスのシャルルドゴール空港まで移動し、空港からRER(フランスの近郊電車)に乗り継ぎ、夕方にリュクサンブール駅で降りた。地下のホームから地上に上がって愕然とした。道が放射状でどの道を行けば良いのか皆目見当がつかない。とりあえず目印となるリュクサンブール公園近くを歩いてホテルの方角に近づこうとしたが、また放射状の道のある交差点にぶつかるのである。そんなことを繰り返すうちに、完全に迷子になってしまった。

   ホテルに電話をする手段もわからない。自分が今いる通りの名前もわからず、地図を片手にスーツケースをガラガラ引き、うろうろとさまよう30代半ばのアジア人がそこにいた。

   途方に暮れていた時、前方から一人の青年が急ぎ足で歩いてくるのが見えた。思い切ってその青年に声をかけて事情を話した。その青年は立ち止まって私の話を聞くと「そのホテルの住所を見せて」という。しばらく眺めていたが、彼にも全く見当がつかないらしかった。すると、「とりあえずこっちの方へ行ってみたらいいかもしれない」と言って、一緒に歩きだしてくれた。ホテルにも電話をしてくれて道順を確認してくれている。しかし、10分くらい歩いたが目印となるはずの建物が見つからず、道行く人にも「Monge」の場所について聞いてくれたが皆わからないという。パリ5区の道は建物もすべて同じように見える上に非常に複雑な道が多い。

   日はとうに暮れており、もはや地図も街灯なしには読めなくなった。もう30分は歩いている。歩きながら彼は携帯電話を取り出し、家に電話をかけているようだった。電話が終わると「今日は奥さんと食事に出かける予定だ。それなので少し遅くなると伝えた」と言った。本当に申し訳ない思いである。歩きながらお互いのことを話すようになった。彼はエンジニアだそうだ。名前を尋ねると「僕はルノー」とだけ言った。「パリはいいところが多いから楽しんだらいいよ」といろいろと教えてくれた。

   ついに、ホテルがある通りに出ることができた。しばらく進むとようやくホテル「Monge」を見つけた。想像をしていた日本で見かけるホテルのイメージとは全く違い、周りの古い石造りの建物に完全に同化した、一人では絶対に見つけ出せていなかったであろうというシロモノのであった。

   ルノー君がホテルの薄暗い玄関先で看板を確認し、「ここがMongeだ、間違いないよ。良かったね」と笑顔で言った。家で奥さんとの食事があり急いでいたはずなのに、1時間近くも一緒に歩いて私のホテルを探すのに付き合ってくれた。「ぜひとも御礼をさせてくれないか、せめて名刺だけでも欲しい」、と言ったのだが、「じゃあね」と手を振ってルノー君は暗がりに歩いていってしまった。

   “Real love begins where nothing is expected in return (本当の愛はお返しをしてもらおうなどと思わないところから始まる)“ とは、昔、長崎を訪れた時にとあるキリスト教会の入口に書いてあった言葉だ。SDGsの17目標は、誰一人として取り残されない世界を実現を信じて、世界の貧困や衛生環境、人権の尊重やジェンダー平等の実現などで困っている人々のための具体的な支援に取り組むためにある。そして支援を受けた人々が、いかに持続可能な社会を築いていけるかを見守っていくのである。

   そんなSDGsの目標達成に向けて働く担い手は、何もボランティアの達人であったり、権威ある団体に所属したり、体系的にSDGsを学んだプロであったり、金持ちである必要はない。本当に困っている人々に共感し寄り添い、具体的に何に対して困っているのか、自分にはそれに対して何ができるのか、を理解しさえすれば、いかなる人も支援の種まきや環境改善の取組はできる。多くの中小企業や家庭でも住みよい社会づくりや消費の無駄、ゴミの削減などに参加している。結果、自分たちが幸せ(Well-Being)になるだけでなく、社会的な評価も上がり、会社の業績も良くなるのである。SDGsに必要なのは社会的問題と人に対する共感だ。

   ルノー君がしてくれたことを忘れることはない。彼はその後も幸せに暮らしているのだろう、と思う。

 

パンチョス萩原(Soiコラムライター)