自分の中の多様性 【SGDs ダイバーシティ】

   ずいぶん前に「タイタニックジョーク」というのがあった。

   ある船にいろいろな国の乗客が乗っている。ところが船は今にも沈没しそうである。船長は乗客に海に飛び込むよう説得しなければならない。さて、船長はどう説得して飛び込んでもらうか?

アメリカ人には、「いま飛び込めば、ヒーローになれますよ」

ドイツ人には、「飛び込むのがルールとなっています」

イタリア人には、「美女がたくさん飛び込みました」

フランス人には、「決して飛び込まないでください」

ロシア人には、「極上のウォッカが流されていますよ」

日本人には、「もうみんな飛び込みましたよ」

   あくまでも、それぞれの国民の典型的な性格や行動様式を題材にしたユーモアであるが、今の時代では民族や人種差別的な要素を含んだブラックジョークと非難される方々も多いかもしれない。 しかしながら、他人と同調する傾向のある日本人は、意外とこういった典型的な性格や行動様式でものを考えることを好むのも事実である。例えば血液型では「A型は気配り型で神経がこまやか、失敗するといつまでもくよくよする…」とか、星座では「天秤座の人は上品なセンスで平和主義者…」とか、本来何の根拠もないはずなのに、ちまたではあたかも真実であるかのような定義までされている。 そのほか、干支、世代、性別などでも共通項を見出したりする。 日本テレビ系列で現在放映中の「秘密のケンミンSHOW極」は都道府県ごとに共通しているように見える行動様式に共感を誘うバラエティー番組となっている。 

   私が今から4年前、産業カウンセラーの資格をとる勉強をしていた時、人がこのようにフレームにはめてしまうことを心理学では「認知バイアス」と呼ぶ、ということを学んだ。これは誰にでもある思考の偏り(かたより)であって、残念ながら一度そう思い込むとなかなか考え方を変えるのは難しい。テレビで好きなタレントが単なる一個人の意見として言っているコメントであっても、自分に都合がいい部分だけを信じてしまうために、それ以外の意見などない、との先入観や思い込みから状況を判断してしまうのはその典型例だ。 また、新型コロナの感染者が増えている中で、人の移動を容認しての経済再生か感染者を増やさない自粛継続かで意見が分かれているところであるが、新型コロナ自体が前人未踏な出来事であり、正解など誰にもわからないし、状況も地域によってケース・バイ・ケースであろう。 そんな不安な中で、一旦、非常に影響力のある有名人がSNSに自分の意見を述べ、「いいね」の数が数万件になっていたりすると、「多くの人がみんなそう思っているのだから、きっと正しいのだろう」と、他人の動向を見た上で自分の意見や行動を決めようとする「同調行動」が起き、反対意見を言う人たちを非難するようなことは、すべてこの「認知バイアス」から起きていると思う。

   驚くことに、この「認知バイアス」は、他人に対してだけでなく、自分の身にも普通に起こる。何か新しいことを始める決心をしたとしよう。最初は情熱を持って始めるが、そのうち「私は長続きしない性格だから」とか、「O型は大雑把だから」とか、勝手に決めつけてしまい、今度はそのことを無意識に「続けない理由」として正当化するようになる。私たちの身近なところではダイエット、英会話、筋トレ、ボランティア…など、楽しみながら少しずつマイペースでチャレンジできる多くのテーマがあるが、検定試験合格とかいうならまだしも、本来、最終的なゴールの定義などない、いわばそのエクササイズや勉強の過程自体を楽しむべきものに対しても、自分の性格や境遇などを理由に断念してしまうケースも多い。 

   さらに、自分自身の性格や行動を決めつけてしまう認知バイアスは、事実の捉え方すら変えてしまうことがある。例えば、ある男性が好意を抱く女性に告白し、「ごめんなさい。あなたとは付き合うことはできないの。」と言われ、「あぁ、僕はもう終わりだ。生きていてもしかたがない。」となったとしよう。個人的にかなり共感できる話ではあるが、心理学的には、この男性が「生きていてもしかたがない」、と判断した固定観念、すなわち「自分は好きな人からフラれた価値のない人間だ→価値がないのだから生きる意味がないのだ」としたところに問題がある、と指摘する。男性ならば好きな女性にフラれたら死ぬほど辛いが、世界中の多くの男性は同様なことを経験しており、「死ななければならないという理由」にはならないはずである。「フラれてしまった。さらに男を磨いて再チャレンジしよう」とか、「今、その人に付き合っている人がいるならしかたがない。辛いけれど来年までに彼女を見つけよう」とか、考える人も中にはいるのである。しかしながら、この男性が論理的に「失恋→死」を定義している場合、死はこの男性にとっては正しい判断なのである。

   アメリカの臨床心理学者アルバート・エリス(1913年-2007年)は、こうした間違った事実を「イラショナル・ビリーフ」と呼び、別の正しい事実「ラショナル・ビリーフ」を導き出して考え方を変え、うつ病などの精神的な疾患をいやすための理性感情行動療法(REBT)を唱えた。このREBTは、現在でも認知的アプローチの認知行動療法や、ビジネスでも、パフォーマンスの促進、目標達成・自己の実現、リーダーシップ、コーチングなどで活用されることも多い。

   多様性を尊重し、他者の考え方・価値感を受け入れよう、という行動はSDGsでも大切な目標となっている。同様に自分の中の多様性をもっともっと柔軟に受け入れてみてはどうだろうか? あまり固定観念に縛られず、結論を急がず、自らの弱さも含めて受け入れ、「自分大好き!」となりたいと思う。

パンチョス萩原

懐石料理の本当の味わい 【SDGs 持続可能な生産消費形態】

   お盆休みに入り、本来ならば里帰りに行ったり、海水浴やキャンプなどに出かける絶好の機会であるはずなのに、今年は「外出自粛」という、これまで経験したこともない過ごし方をしている。 スマホは普段からあまり見ない生活をしてきたが、家にいることが多くなった5月以降は以前よりはスマホを手に取る機会が増え、行きたくても行けない観光地のHPを見ては行った気持ちになったりしている。京都もそんな場所の一つである。

   私は絵を描くことが好きであり、かつて仕事の傍ら、京都造形芸術大学の美術科で日本画を学んだことがある。仕事をしながら勉強することができる通信学部に通ったが、内容は本科と同等のものであった。 授業は日本画自体以外にも学ぶものは多く、教養科目にはアジア・ヨーロッパの美術史をはじめ、学術論文の書き方、茶の湯、街の出来かたを学ぶためのフィールドワーク、ひいては物理学などもあった。スクーリングの授業は京都市左京区の北白川キャンパスで開講されることが多かった。京都駅からは市バス5系統(銀閣寺・岩倉行)に乗り、「上終町京都造形芸大前」というバス停で降りれば目の前に大学はある。 京都造形芸大生は、京都市内の美術館・博物館は学生証を見せればすべて無料で閲覧できるというメリットがあったので、授業ではよく細見美術館や住友コレクションで有名な泉屋(せんおく)博古館にも出かけた。今日はそんな日本画を学んでいた2008年当時に野村美術館の学芸員(2020年現在は館長)であられた谷晃先生から教わった、茶の湯にまつわる話を少し書いてみたい。

   茶の起源は今から3000年前と大変古い。中国の漢、今の雲南省当たりから世界へ広がりはじめ、南ルートはC音(チャ)の音で伝わりアジア諸国語でチャイや日本語の茶(ちゃ)となり、北ルートはT音(ティー)で英語のTeaやフランス語のThe(テ)になったそうだ。 日本には遣唐使によって、蒸した茶葉を団子のように固めたものとして茶が伝わり、その後煮出したり煎じたりする飲み方に変わっていったが、1200年頃から「点(た)てる」という表現が用いられる飲み方(茶葉を粉末にして湯とかくはんする飲み方。茶の湯の原点)が台頭し、1300年頃には庶民の間で歌を詠んだり、わいわいガヤガヤと話をするために集まる「数寄(すき)雑談」が流行り始めた。この数寄雑談が少しずつ形式ばったセレモニーのようになり、茶数寄や侘(わび)数寄に形を変え、16世紀には現代にみられる茶室や茶道具などで茶を味わう茶の湯が完成していたといわれる。

   授業では千利休の孫にあたる千宗旦が建て、今でも現存する茶室である今日庵(こんにちあん)に特別に入ることを許され、当時の侘び茶文化を学ぶ貴重な機会を得た。「茶室に入るのには足袋か靴下を履いて下さい」と事前に言われていたため、靴下を持っていったが、茶室で履く足袋や靴下の色は白でなければならないのを全く知らなかった私は黒の靴下を履いて、一人だけずっと気まずい思いをしたことを今でも覚えている。

   さて、茶事(または茶会)に行かれたことがある方々はご承知であろうが、正式な茶事などでは茶室で懐石料理が振舞われる。「かいせき」はまた別の漢字で「会席」と呼ばれることもあり、茶会に関連しない料亭や割烹などではこちらの呼ばれかたの方が多いが、もともと質素倹約で修行にあたっている禅僧がおなかに石をあたためておくと空腹感が紛れるという意味の「懐石」が18世紀初頭から使われ始めた方が古い。今の時代では懐石料理を食べようものなら料亭などではランチでも5000円はするほど高級であるため、私自身は滅多に口にすることはないが、本来懐石料理は、旬の食材(すぐに手に入るもの)を極めてシンプルな味わいで出される質素な料理なのである。ところが、食材や香辛料は質素極まりないにもかかわらず、料理は一つのストーリー仕立てで一皿ずつ出てくる。基本的には11皿(初膳→向付(むこうづけ・オードブル)→柳に毬(まり)→向付2品目(煮物)焼き物→汁→八寸→強肴(しいざかな)1品目→強肴(しいざかな)2品目→焦し・香の物→菓子)の順番で出されるのであるが、どれもこれも極めて人の手が込んでおり、一皿ごとに盛り付けも美しく、食べてしまうのがもったいないほどの見映えである。ようするに懐石料理とは豪華な食材を味わうのではなく、作り手の手間ひまかけた時間を食するのだ。 質素な食事とはいえ、それを用意する料理人たちは交通手段も物流システムも乏しい時代に走り回って食材を買いに行った。その手間をかけて丹精につくられた料理を食べる側としては、感謝を込めて、「私のために走り回って頂き、ありがとうございます。ご馳走に預からせて頂きます。」となる。 ご存じのように英語で料理のことをCookingというが、語源はラテン語で「調理する、焼く」の意味であるが、日本語の「料理」には、作り手のひたむきなもてなしの心という無形の価値が含まれていると思う。

   懐石料理は、むやみな殺生(せっしょう)はせず、必要なものを必要なだけを、心からのもてなしを込めて共に味わう、という生態系にも人とのコミュニケーションにも優しい日本が育んだ文化に根差したものであった。そのことを改めて思い起こし、ステイホームが日常的な現在、家にいてもできる限りの「質素な贅沢」を味わいたいと思う。

   農林水産省によると、いま全世界で年間廃棄される食品廃棄物は13億トンに達している。この食品ロス問題は、国連、EUなどをはじめ各国がSDGsターゲット中12.3で「2030年までに小売り・消費レベルにおける世界全体の一人当たりの食料の廃棄を半減させ、収穫後損失などの生産・サプライチェーンにおける食品ロスを減少させる」の目標を掲げ取り組んでいるところである。実現できるかできないかは、いま私を含め、地球上で暮らす一人ひとりの努力にかかっている。

パンチョス萩原

「ワーク・ライフ・ハーモニー」

働き方改革に欠かせないキーワード、
ワーク・ライフ・バランスの定義を聞かれたら、どう答えますか?

なんとなく、仕事の時間を減らして、家庭や趣味の時間をつくる
というようなイメージがありますが・・

自身にとってバランスの良い割合を自分で決めること
と、株式会社ワーク・ライフバランスの小室さんはいいます。

たとえば、育休明けの方が仕事に復帰するときに
・定時に退社し、子どもが寝た後に、家でまた仕事をする
・仕事と時間および給与を一時的に減らし、子どもの時間を確保する
のように、時間の割合(と給与)を自分で選択するのがポイントです。

 
アマゾンのCEOジェフ・ベゾス氏のアドバイスは、
ワーク・ライフ・バランスの誤解されがちな点を述べています。

仕事と私生活の間で「バランス」を取ろうとするのはやめるべきだと考えている。
バランスを取るということは、この2つが一方を追求すれば
他方を犠牲にせざるを得ないトレードオフの関係にあることを意味するからだ。

たしかに、バランスの語源は
ラテン語 bi (2つの) 、lanx (尺度の皿)から成り立ち、
合わせて「天秤の二つの皿の平衡状態」を表すので
確かに、こちらを立てればあちらが立たず、と思いがちです。

ベゾス氏の仕事と生活の調和を保つためのアプローチは、

ワーク・ライフ・ハーモニー……つまり仕事と人生の調和を図る
(中略)
仕事と私生活は天秤にかけるものと考えるよりも、
2つは互いに組み合わさっているものと見る方がより生産的だ

言葉は異なっても、仕事と生活の相乗効果・好循環を目指す
という本質は、両者とも同じです。

社員が仕事と生活で自分らしいハーモニーを奏でられる、
Soiはそんな会社にしたいと思います。

Cantare Kaoru

出典:Business Insider Japan
ワーク・ライフ・バランスは人間を消耗させる? ジェフ・ベゾス氏の驚くべきアドバイス

上司の及第点 【SDGs 働きがい】

   今から30年前の話となると、お読みの皆様はこの世に生まれていないか、生まれていても学生であった方々も多いと思う。その頃の私は既に日本で唯一石油掘削船を保有し、海洋油田を開発する会社に就職していた。経理部に所属し、石油掘削船3隻の業績取りまとめを担当し、毎月のようにそれらが操業する海洋付近にある現地事務所で経理業務をする日々を送っていた。特に想い出に残っているのは駐在した中国広東省蛇口(しぇこう)でのことであった。恐らく話だしたら朝まで話題に事欠かないと思うが、今日は当時の私に対し、上司の暖かい一言で救われた話を書こうと思う。

   ある週末のこと、一人で香港に遊びに行くことにした。蛇口は香港からほど近く、肉眼でも見える距離に位置し、フェリーで1時間で行き来できる便利な場所であった。 私は朝に蛇口のフェリー乗り場から香港に向かった。 当時の蛇口や深圳市は今と全く違い、鄧小平が経済開放特区に指定し、西側の文化が夥しく流入している最中であったが、物資がとても少ない時代だったので、事務所の中国人たちが「香港に行くなら買い物を頼まれて欲しい」とたくさんの買い物リストを持たされた。 街でフィルムだの安物ではあるがアクセサリーだの頼まれたものを買い、少し観光をした後に午後帰りのフェリーターミナルに行ったときに背中が凍り付くのを覚えた。既に最終フェリーが出てしまったのである。

   会社も日曜日で誰もおらず連絡が出来ない(そもそも電話がない)、所持している香港ドルも日本円で3000円程度しかない、知り合いもいない…。 これはどこかに宿泊して明日朝いちばんのフェリーで戻るしかない、とホテルを探したが、来ていた服があまりにもお粗末(半そでシャツと短パン、ビーチサンダル)で、どこのホテルも取り合ってももらえず、最後の最後でホリディインが素泊まりで1000香港ドル(2万円程度)で、マスターカード払いを認めてもらうのにパスポートを預けて30分近く審査を受ける羽目となった。その夜もどこにも行けず、買ってきた軽食を部屋で食べて不安と心配の中で一夜を過ごした。 会社には何も連絡が出来なかった。

翌日月曜日に会社の玄関にたどり着いたのは午後2時を回っていた。仕事に厳しい所長に何とお詫びをすればよいのかわからないまま事務所を開けたとたん、おー、という声が響いてみんなが私を見ていることに気づいた。 所長が「お前、無事だったかー、香港で何かあったかと思ったぞ。」ととても心配してくれていて、事情を話すと彼はこう言った。 「それはもったいないことをしたなー。香港の夜景は100万ドルの夜景と呼ばれているんだぞ。その100万ドルの夜景が1000ドルで見れたのになーんで見なかったんだ???」 

十分に反省して帰ってきた部下に一言の叱りも入れず、ユーモアを持って包んでくれた優しさは30年経った今でも決して忘れることはない。 あの所長の一言はその後の私に部下に対する対応を教えてくれたと今でも思っている。 上司はかくあるべき、という一つのことを教えて頂いた。

国連が推奨するSDGsの17のゴールの16番目に「平和と公正をすべての人に」という目標があり、学校や会社におけるいじめや虐待、ハラスメントなどでなくすこと、また困っている人を見過ごさないよう支援をすることが謳われている。加えて少数派や弱者などの多様な意見や視点を積極的に汲み上げることも目標に定めている。 昨今学校や会社で生きづらさを覚える多くの人々がストレスを抱え、人間関係に迷っている。 SNSで認められることで承認欲求を満たし、全く見知らぬ人々からの「いいね」の数で一喜一憂している多くの人たちが確かにいることを考えるとき、本当に身近な人たちとのかかわりが薄くなっているのではないだろうか、と思えてならない。 部下の言葉を聞かない、自分の意見を押し付ける、そんな上司になってはいないだろうか、と毎日自問する。  

 

パンチョス萩原

「アンサンブルの神髄はハーモニー」

『のだめカンタービレ』の好きなシーンのひとつがこちら
「袖口と……世界の調和のアンサンブル」です♪

マルレオケのコンマス シモンさん

アンサンブルの神髄はハーモニー
ようするに「調和」だ
この調和は古代ギリシャの時代「ハルモニー」と呼ばれ
キリスト教社会になった時
「神のつくりたもうた世界は
 素晴らしい調和によって創造されている」
(略)
音楽の本質は「調和」にあるのだ
それを表現するのが真の「音楽家」なんだ    

引用元『のだめカンタービレ』16巻

 

アンサンブル(ensemble)とは、フランス語で「一緒に」の意味で
音楽用語では、2人以上が同時に演奏することです。

オーケストラでは、バイオリンやトランペットなどの様々な楽器が
一緒に演奏し、ハーモニーを奏でます。

この社会もまた、多様な人々と組織がともに活動しています。
持続可能な社会を実現するためには、つまり「調和」を生み出すには
みんなで協力して取り組むことが大切です。

Soi=Social Integrationは
ビジネスにソーシャルを融合しようというコンセプト。

いうなれば、Soiは
ビジネスとソーシャルの「ハーモニー」を表現する音楽家なのです。

Cantare Kaoru

平和の門が教えること 【SGDs 平和と公正をすべての人に】

   「広島」と聞いて何が頭に浮かぶ?と言われたら、カキ、もみじ饅頭、お好み焼き、大林宣彦監督の尾道三部作、しまなみ海道…、など人それぞれであろうが、「広島と長崎」と聞いて何を思い浮かべるか?と言われたら、ほとんどの人は「原爆」と答えるに違いない。 歴史上の事実として今から75年前の8月に日本人は原爆投下や終戦を経験した。そして、いかに時代が移ろうとも、新型コロナの今年であろうとも、広島と長崎におけて平和祈念式典は毎年必ず行われている。10代や20代の感受性豊かな頃に実際に戦争体験をした方々はすでにかなりの高齢となり、悲惨な戦争の語り部は年々減少しているが、地下鉄九段下駅から歩いて1分にある「昭和館」では当時学童疎開していた時の体験、さらには映画3丁目の夕日で垣間見た戦後復興の記憶を伝承しようとする働きが再び脚光を帯び、その活動に参加することがシニアの方々の生きがいにもなってきていると聞く。 そんなシニア世代をテーマにさまざまな研究を一つの学術体系として定義する「ジェロントロジー」という学問があるが、それについては今後のコラムの中でご紹介してみたいと思う。 今日はSDGsの中でも最も重要とも言うべき平和を題材に考えてみたい。
   一般的に「平和」というと、これもいろいろなイメージが頭に浮かぶ。また似たような言葉に「和平」というのもあり、何となくとしか違いがわからない。 平和も和平も、よくテレビのニュースで耳にするため、メディアはどう使い分けるのかをNHKのHPから調べてみると、“「平和」は戦争や災害などがなく穏やかな「状態」を指します。いっぽう「和平」は、悪い状況から平和な状態になること、または平和な状態にすること、という「状態の変化」を表します”とある(出典:NHK放送文化研究所 最近気になる放送用語より)。平和という言葉は状態そのものであるから「平和な~」という言い方で使われ、状態の変化を表す和平という言葉は文法的に「和平な~」とはできないそうだ。余談であるが、このサイトには「材木」と「木材」の違いも載っていて面白い。
   いろいろと調べる中で「平和」という言葉自体が明治以降、英語のPeaceを訳したときに出来た言葉であること説が有力ということを知った。 英語のPeaceという単語の語源自体はラテン語の pax(パークス)、フランス語のPaix(ぺ)、イタリア語のPace(パーチェ)…などであり、もともとは「協定・講和・武力による平和」などの意味である。 「平和にする」という動詞はPacificate であるが、日本では「平和の」という形容詞で使われるPacificの方を耳にすることが多く、Pacific Oceanのことを「太平洋」という平という字を用いているところからも、平和という言葉が外来語由来であることがわかる。ちなみにPacific Oceanという言葉はスペインの冒険家マゼランが16世紀に太平洋を渡った時、波も少なく快適に航行できたことに感激し、「Mare Pacificum(穏やかな海)」と名付けたのが始まりだそうだ。平和には風もなく穏やかなイメージがあるが、いつブリザードで荒波が立つ海のようになるかわからないことも忘れてはいけないと思う。


   話を広島と長崎に戻すと、今年もテレビで平和祈念式典の様子が報道されていた。広島市は参列者をソーシャルディスタンスを取るために毎年の5万人から800人に留めたそうである。 平和記念公園からのテレビ中継では公園の中心にあるアーチ形の原爆死没者慰霊碑の前に参列者が座り、正面に見える原爆ドームを借景としている映像がよく映し出されるが、公園の南側を100メートルにわたり東西に走る平和大通りにある「平和の門」も大切なモニュメントである。

   この作品は、フランスの芸術家クララ・アルテール氏と建築家ジャン=ミッシェル・ヴィルモット氏によって戦後60周年の2005年に制作された高さ9メートル・幅2.6メートル・奥行1.6メートルの強化ガラス製であり、柱状の門が10基並んでいる。そのすべての門と敷石には、世界49か国の言葉で「平和」を意味する言葉が書かれている。広島広域観光情報サイト「ひろたび」による紹介文には、平和の門は、“歴史を越え、未来に向かって開かれた記憶と希望の「かけはし」を表現しています”とある。 また広島平和記念資料館のサイト上では、「10」という門の数は、“イタリアの詩人のダンテが書いた『神曲』の中に出てくる9つの地獄に、その当時では想像もしえなかった広島の被爆体験という生き地獄を加えたもの”という意味があるそうで、原爆という悲惨な過去を改めて現代を生きる人々が見つめることで、平和ある未来へ希望を持とうという願いが込められているのである。

   それにしても地獄を門10基に世界中の平和を意味する単語を書き添えて希望の門に変えるという発想は凄すぎる。


   平和の門が教えるように、人々は、地獄のような困難を乗り越えて平和を得ているのである。現在、未だに貧困国における経済発展や環境保護、さらには猛威をふるっている新型コロナのさなかにあっても、世界中の人々は必死に平和な日々を求め努力している。平和とは、人々が自ら作り出す努力の結果に他ならない。さまざまな困難はあるが、平和を作り出す担い手の一人でありたいと思う。

パンチョス萩原

ISRのすすめ 【ESG】

   CSR(コーポレート・ソーシャル・レスポンシブリティ)という言葉は現在多くの方々に知られている。横文字なので海外から流入された「経営者における考え方」のような印象を受けるが、日本にもこうした考え方はずいぶん前からあった。 ネット上に公開されているニッセイ基礎研レポート2004年5月版の「日本の「企業の社会的責任」の系譜(その1)(社会研究部門 川村 雅彦氏による監修)」を拝読すると、日本では1956年の経済同友会決議「経営者の社会的責任の自覚と実践」がその基点となっているらしい。 

   この「企業の社会的責任」こそがCSRの概念である訳だが、実は具体的なCSRの定義はなく、企業が果たすべき様々な責任、例えば、法的な責任、経済的な責任、倫理的な責任、社会への貢献責任、環境への配慮責任などが包括的に含まれている。また、最近ではガバナンスの側面から企業倫理、法令遵守(コンプライアンス)、不正・腐敗防止、労働・雇用、人権、安全・衛生、消費者保護、社会貢献、調達基準、海外事業などの倫理面や社会面が強調されることも多い。 敢えてこれらの責任が叫ばれるということは、それだけ企業には不祥事や不正、環境破壊などが蔓延(はびこ)っていた事実の裏返しでもあるわけだ。

   一般的には、どのような企業であれ、本来まず一番に果たさなければならない責任は、1)会社を設立してくれた株主の期待を裏切らないこと(出資してくれた人に配当金を分配できるように会社が利益を出すこと)と、2)国を豊かにするために納税をすること、と言われる。 要するに「儲ける」ということが会社の使命であり、そのことが従業員や取引先、地域や国を豊かにするのであるから、この考え方に反対意見の人は少ない。 ここで書いているテーマは、あくまでも企業の「社会的責任」であり、CSRから一歩発展を遂げた、現在のESG(環境・社会・ガバナンス)にみられる企業経営の礎についてである。 今日はこの「社会的な責任」とは何かについて私なりに考えてみたい。

  前回までのコラムで日本人の気質のようなものについて書かせて頂いた。地理的にも歴史的にも諸外国からの介入が比較的少ない時代が長く続いたことにより、日本人は独自の文化を形成してきた。 日本は明治時代以降は西洋の文化と融合し、勤勉さも相まってGDP世界第3位の資本主義国家になった訳であるが、現代においてもこの国で暮らす国民たちは古来からの人との関わり方や生活における考え方はそう変わっていないように思える。 日本人の考え方の顕著なものの中には、「ひとさまに迷惑はかけない」というのがあり、人から受けた行為に対して決して恩を忘れず、生業(なりわい)も持って一生懸命働き、自らが属するコミュニティの中では問題を起こして他者に迷惑を起こさない、ということが言わば当たり前のDNAとなって次の世代へ継がれているかのようにも見える。なので、元来日本人にとっては、社会との共存や他者への尊敬、環境への配慮などは全く新しい考え方ではなく、ごく普通のことなのである。 令和の時代となって、昔に比べるとダイバーシティ(多様化)が進み、人々の価値観も一人一人が異なる中では、「社会的な責任」というフレーズでもそれぞれ違うイメージを持つ人々が多くいても全く不思議なことではない。 

   人々が社会をどのように定義づけるのかは問題ではないが、「社会が何を必要としているのか」には共通な認識がなければならないと思う。

   そもそもCSRのResponsibility(責任)という言葉の語源は、Response (応える)であり、さらに元のラテン語まで遡ると Re(返す) + spondere(約束する)となる。 したがい、「約束を持ってお返しする」という意味があり、 何に対してお返しするのかと言えば、それは「期待」に他ならない。

   それでは、社会が待ち望む期待は一体何なのか? ニーズは何か? それを前提としてアクションをとることで初めて「社会的活動をしている会社」と呼ばれるわけであるからこの問いはとても重要である。 家族からの期待でも、友人からの期待でも、相手が何を望んているのかをきちんと理解しなければ何の約束も応答もできていないことになるのと同様に、この社会が何を望んでいるのかを企業がしっかりと認識しない限り社会的責任は果たすことはできない。なので、まず社会に今何が起きているのか、社会に何が必要なのかを知ること、学ぶことから始めなければならない。 そしてこれはその社会に生きている私たち一人ひとりにとっても大切なことである。

   社会的責任を果たすのは何も大企業や専門家たちだけの専売特許ではなく、この社会を形成している一人ひとりがそれぞれに社会から期待されること、社会にとって必要なことに応えていくことができたら素晴らしいと思う。CSRではなく、ISR(Individual(個々の)Social Responsibility)である。このISRは多かれ少なかれ私たち一人ひとりが毎日できることだと信じているし、ESGやCSRを語る前にまず一個人のレベルで始めるべきだとも思う。

   先に述べた経済同友会決議「経営者の社会的責任の自覚と実践」は、その3年前の1953年に米国で出版されたボーウェンによる「ビジネスマンの社会的責任」がベースになっていると言われており、この時点ではビジネスマン一人ひとりの単位から社会的責任を果たしていこう、という考え方であったことがわかる。 

家族、友人、会社、地域、国のためにできること、一人一人がそれぞれできる範囲で実践していけたら本当に素晴らしい。

パンチョス萩原

コミュニケーションのルール 【SDGs 働きがいのある人間らしい(ディーセント・ワーク)の促進)】

   グローバル企業においては、本社の役員幹部がガバナンス構築のために世界各地に展開する関連会社の役員を兼務することは珍しいことではない。 私も以前の会社で事業部のCFO(Chief Financial Officer)であった頃には、上海、広州、シンガポール、米国ニュージャージー州、南アフリカ、デュッセルドルフ、ルクセンブルグなどの国にある関連会社で役職を兼務しており、現地で開催される経営会議や取締役会に頻繁に出張していた。 出張には当然飛行機を利用するのだが、私の場合、ANA、ルフトハンザ航空、エバー航空などが加盟するスターアライアンスを使うことが多かった。 久しぶりに当時(2018年)の手帳を見てみると、一年間で飛行機を利用した距離が800,000マイルを超えており、365日中、ざっと90日程度は地上にいなかったことになる。 現在は新型コロナの影響で海外への出張も無理な時分である。 以前のようにまた海外で活躍できるようになることを願わずにはいられない。

   さて、飛行機をご利用なさっている方々はご存じだと思うが、機内に乗り込んだ乗客が全員座席に着いた時にCA(キャビンアテンダント)が必ず行なうことがある。それは業務連絡だ。

「乗務員はドアーをマニュアルモードからオートマチックに変更し、相互確認を行なってください。」

   飛行中、万が一非常事態が発生し、緊急着陸などが必要になった場合に、ドアーをオートマチックモード(もしくはアームドポジションともいう)にしておかないとドアーを開けた時に脱出用スライドが自動的に出ないため、ドアーのモードを切り替えているのだ。 大げさに言えば、国連の定める持続可能な開発17の目標(SDGs)の169ターゲットのうち、11.2 「交通の安全性改善により、持続可能な輸送システムへのアクセスを提供する」に該当し、乗客を安全に守ることが目的の具体的なアクションの一つである。

   私はこの業務連絡の中でCAの方が使う「相互確認」という言葉が好きだ。英語で言えば Cross-Checking である。 実際にCAの方々は、機体前方と後方のドアーにそれぞれ立ち、相互確認はドアーモードを切り替えた後、FBの「いいね」の形で確認を行なっている。 機内の電話で確認し合うことはできるのだろうが、親指を立てて「OK!」というサインを目視する方がより確実であることは間違いない。

   相互確認はビジネスのあらゆるシーンで見られる。例えば、為替予約取引(為替ヘッジ)をする際に、金融機関から提示された為替レートでOKな場合は、「それでいいですよ」とか「お願いします」ではなく、「そのレートでDONE(ダン)です」と言う。DONEと言われたら直ちに金融機関は取引日の通貨をオンラインで予約する処理を行なうため、一旦DONEしたものを買い手側は取り消すことはできない。このDONEが使われるのは、「いいです」や「お願いします」などで聞き間違いや誤解が生じるのを避けるためである。また、取締役会や株主総会では、会議の中で話したり決定した内容は参加者、発言者、決定された事項などを纏めた議事録が作成されるが、関係者に配布される前に内容を参加者、発言者らに徹底して再確認し、「これは議事録に載せないでください」とか、「この言い方は別の表現でお願いします」など誤解や問題が生じないようにしている。 警察、軍隊の使う無線でも相手からの通信に対し、「Roger(ラジャー「Received」の「R」を聞き間違われないように表す言葉)」や「Copy(確かに自分の心に写し取った)」という返答を行なう。相互確認はビジネスをはじめ、どのような組織でも大変重要なアクションなのだ。

   ところが、一般的に日本人はこの相互確認を敢えてする、という文化にあまり馴染んでいないように感じている。 取引先ときちんと内容を理解し、詳細を詰めた契約書を作っていないことが多かったり、上司から一方通行で部下に指示をし、後日「オレはそういうことを言いたかったんじゃない。やり直せ。」、「では初めからそう言って下さい!」という日常の何と多いことか。 本音を表面に出さずに “言外に匂わせる(相手に察してもらう)”方が、細かいところまで根掘り葉掘り確認し合うよりも奥ゆかしいと感じる気持ち自体は、たしかに私自身にもある。 しかしながらテレワークが日常化している現在、メールでコミュニケーションをとることが当たり前の中、この「相互確認」を改めて意識して行なう必要があると思う。

   相互確認はお互いの信頼関係の上に成り立つ。 また、作業のやり直しや、後々の無駄な議論をなくす上でも大幅な時間効率の改善となり、働きがいある職場づくりに大いに役立つ行動だ。 信頼関係はコミュニケーションをしている相手に関心を持ち、気持ちを理解し、受入れるところから始まる。会社での上司・同僚・部下との人間関係であれ、私生活の家族・友人・SNS上の友達などにおいて、相手を尊敬し、お互いの気持ちや言い分をきちんと確認し合うことによって、よりよいコミュニケーションをしていきたい。

他人のことに関心を持たない人間は苦難の道を歩まねばならず、他人に対しても大きな迷惑をかけることになる。人間のあらゆる失敗はそういう人たちの間から生まれるのです。

アルフレッド・アドラー(精神科医・心理学者・社会理論家)

パンチョス萩原

Apple時価総額世界一 【ESG】

   私の個人用のスマホはずっとアンドロイド搭載のXPERIAシリーズであるが、現在の会社から貸与されている会社用の携帯はiPhoneである。 どちらも使い勝手に大差はないが、個人的にデザイン性ではiPhoneの方が上のような気がしてならない。 30年ほど前には白黒画面のMacintosh ClassicやPerforma ではCD-ROMによる学習ソフトで勉強をしていた。 現在のようなネットで何でも手に入るような時代とはほど遠いが、いつの時代も不変であると思われるのはApple社の独創性と卓越した製品ではないだろうか。

   そのAppleが先週7月31日のニューヨーク株式市場で好調な業績が好感を受け、上場来の高値を更新し、時価総額が世界最大の1兆8400億ドル(約193兆円)となった。これまで首位であったサウジアラビアの国営会社Saudi Aramcoを抜いた。 

   Saudi Aramcoは今年で設立してから87年もの歴史を持つが、数々の戦争やオイル利権の受難の中、1988年に国営化され、昨年2019年12月にサウジ証券取引上に上場を果たした石油会社であるが、上場したとたんに時価総額が2兆ドルを超え、世界一となったことで大きく話題となった。その後は株価が落ち、2020年に入ってからは時価総額が1195億ドル減っている。一方、Appleの時価総額は年初から5375億ドル増えた。 

両社の違いとは一体何なのだろうか?

   もちろん、Appleの時価総額世界一返り咲きの背景にはその前日に発表した好決算であって、これが大きく投資マネーを呼び込んだことは間違いないと思う。  コロナ禍の中、Stay Homeが全世界で実践され、テレワークや自宅学習の機会が膨大に増え、Appleは大きく販売を増やした。 また、株式分割も行なったことで個人の投資家がApple株を買いやすくなったことも要因にあると思う。 次世代の5G対応端末への期待感やコロナが長引くことによるテレワークにおるオンラインでのビジネスや学習需要で、ハイテク株への投資家の思いは熱い現状がある。 これはグーグル、アマゾンも同様に株価が上昇している。

  一方、Saudi Aramcoなどのエネルギー株は、現在の原油価格から見た場合に採算が悪化し続けている。私も20代に海洋油田開発のための石油掘削船を保有する会社の経理部にいたことがあり、中国の広州、オーストラリアのパース、香港などでメジャーセブンからの掘削契約のために現地会社の経理業務をした経験があるが、当時は海底3000メートル近くまで石油の鉱脈を目指して掘っても20本に1本ヒットするか博打のような状況であった。しかも商業ベースに乗る埋蔵量がある場合はさらに確率が低くなる。 したがい、原油価格が上がらなければ世界の石油会社は大赤字で鉱脈を見つけなければならなくなるわけだ。 コロナ禍では原油需要はさらに見込めず、石油業界にとってはとても厳しい冬の時代が来ていると言っても過言ではないと思う。

  さらに懸念すべきは、ESG投資の広がりで、対策が遅れているエネルギー企業が投資銘柄から外されることが起こり、投資マネーが入ってこないために株価が上がらないことも最近顕著になってきている。   

Appleの時価総額世界一よりも、その座を譲ったSaudi Aramcoの現状を垣間見ることにより、ESGに積極的な姿勢を出しているかが会社の明暗を分けていることを感じている。 

(パンチョス萩原)

日本人と欧米人 捉え方の違い [SDGs・ダイバーシティ]

 素晴らしい文章と洞察力に触れた、と思った。

 イギリスの科学ジャーナリストのEd Yong (エド・ヨン)氏がThe Atlanticに寄稿した”How the Pandemic Defeated America“ (「パンデミックはいかにしてアメリカを打ち負かしたか」)を読んだ。 ちまたに溢れている新型コロナ関連の記事である。一般的には「世界で蔓延して1800万人以上が感染している新型コロナは…」とか、「私たちの日常生活をガラリと変えた今回の新型コロナウィルスは…」とかいう始まり方をするものだが、Ed Yong氏は科学者の目から見たまま、冒頭こう始める;「どうやったらそんなことができる? 塵(ちり)の数千倍も小さい超微粒子が、この惑星で最も力強い大国を屈服し、屈辱を与えるなんてことが…」。

 思わず興味をそそられた。Ed Yong氏の記述は大変な洞察に満ちており、非常に説得力のある根拠に基づいているので、お時間がある方、興味のある方はぜひお読み頂ければと思うが、私が記述と全く関係ないところで今回改めて感じたことがあった。それは新型コロナウィルスに対する英語の表現と、日本語での表現の違いである。今日は感じたままにそのことをお伝えしたい。

 殆ど論文に近い今回のEd Yong氏の記事では、新型コロナウィルスに関して使用されている英単語は、主に ”outbreak” と ”spillover” である。Outbreak は訳すれば「外に拡がる」であり、spillover は「溢れ出る」という意味である。すなわち、英語圏の考え方は、「ウィルスが中心地から外側へ拡がり、溢れ出ていく」という発想がベースとなっており、水面に葉が落ちて同心円に波紋が広がっていくようなイメージが浮かぶ。

 対して日本語では、ウィルスに「感染」するという表現が一般的であり、どこから来たのかはわからないが、ウィルスが自分の体に外側から入ってくる、という受け身の表現をとっている。「蔓延する」という表現も自分たちがいる空間上にその存在を確認する、という意味では受動的表現である。 要するに向いている矢印の向きが逆なのである。 反論として英語でも感染を表す単語に “infection” があるが、これは体内で「作用する」という意味合いの方が強い(語源も in+fect(to make))ので、日本語にある「感染する」という状態のみを表す受動的表現の意味合いとは少し毛色が違うと感じる。 


 あくまでも想像に過ぎないが、欧米人には、ウィルスなる悪いものが外側へ拡がっていく中であらゆる禍をもたらしていく、だからそれに立ち向かう、という発想がoutbreakや spilloverなどの表現を通して表されており、それは古来ギリシャ神話に登場するパンドラの箱を開けてしまったためにあらゆる悪がこの世に溢れ出た話や、悪に手を染めたものは容赦なく裁かれるという旧約聖書の父なる神のような発想に由来するために、トランプ大統領のように「誰がウィルスをまき散らしたのか?中国が陰謀で世界に拡げたのだ!」という考え方が生まれているように思われる。

 それに対し、日本人には森羅万象のあらゆる事象、震災や今回の新型コロナウィルスのようなものもありのまま内側に受入れ、最善を尽くすという考え、また母なる菩薩に慈悲を頂き恩恵を受けようとする発想が根底にあるのかもしれない。今年の2月にダイヤモンド・プリンセス号で新型コロナの集団感染が報道された時に「いったい誰がウィルスを持ち込んだのか?処罰せよ!」という報道が果たしてあっただろうか?恐らく香港に停泊した時に乗客が持ち込んだのであろうが、日本での報道では、ウィルスの怖さと懸命に戦う医療現場の様子が大半で、乗客らが感染した原因を徹底調査したニュースを私は見たことがない。

 ダイバーシティ(多様化)という言葉が今のような意味合いで初めて使われだしたのは、アメリカで公民権法が制定され、黒人差別の撤廃運動が日の目を浴び始めた1960年代に遡る。それから半世紀がたち、日本でも未だ不十分ではあるが、ようやく女性の活躍や社会的弱者に対しても日常の生活に普通に見られる風潮になった。 本当の意味でのダイバーシティを語る知識も資格も私にはないが、自分と違う他者のことを理解し受入れるという意味では、日本人の受動的な考え方・気質こそ多様化していく社会を作り上げるのに必要なものではないだろうか。

パンチョス萩原

How the Pandemic Defeated America by Ed Yong https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2020/09/coronavirus-american-failure/614191/