今から30年前の話となると、お読みの皆様はこの世に生まれていないか、生まれていても学生であった方々も多いと思う。その頃の私は既に日本で唯一石油掘削船を保有し、海洋油田を開発する会社に就職していた。経理部に所属し、石油掘削船3隻の業績取りまとめを担当し、毎月のようにそれらが操業する海洋付近にある現地事務所で経理業務をする日々を送っていた。特に想い出に残っているのは駐在した中国広東省蛇口(しぇこう)でのことであった。恐らく話だしたら朝まで話題に事欠かないと思うが、今日は当時の私に対し、上司の暖かい一言で救われた話を書こうと思う。
ある週末のこと、一人で香港に遊びに行くことにした。蛇口は香港からほど近く、肉眼でも見える距離に位置し、フェリーで1時間で行き来できる便利な場所であった。 私は朝に蛇口のフェリー乗り場から香港に向かった。 当時の蛇口や深圳市は今と全く違い、鄧小平が経済開放特区に指定し、西側の文化が夥しく流入している最中であったが、物資がとても少ない時代だったので、事務所の中国人たちが「香港に行くなら買い物を頼まれて欲しい」とたくさんの買い物リストを持たされた。 街でフィルムだの安物ではあるがアクセサリーだの頼まれたものを買い、少し観光をした後に午後帰りのフェリーターミナルに行ったときに背中が凍り付くのを覚えた。既に最終フェリーが出てしまったのである。
会社も日曜日で誰もおらず連絡が出来ない(そもそも電話がない)、所持している香港ドルも日本円で3000円程度しかない、知り合いもいない…。 これはどこかに宿泊して明日朝いちばんのフェリーで戻るしかない、とホテルを探したが、来ていた服があまりにもお粗末(半そでシャツと短パン、ビーチサンダル)で、どこのホテルも取り合ってももらえず、最後の最後でホリディインが素泊まりで1000香港ドル(2万円程度)で、マスターカード払いを認めてもらうのにパスポートを預けて30分近く審査を受ける羽目となった。その夜もどこにも行けず、買ってきた軽食を部屋で食べて不安と心配の中で一夜を過ごした。 会社には何も連絡が出来なかった。
翌日月曜日に会社の玄関にたどり着いたのは午後2時を回っていた。仕事に厳しい所長に何とお詫びをすればよいのかわからないまま事務所を開けたとたん、おー、という声が響いてみんなが私を見ていることに気づいた。 所長が「お前、無事だったかー、香港で何かあったかと思ったぞ。」ととても心配してくれていて、事情を話すと彼はこう言った。 「それはもったいないことをしたなー。香港の夜景は100万ドルの夜景と呼ばれているんだぞ。その100万ドルの夜景が1000ドルで見れたのになーんで見なかったんだ???」
十分に反省して帰ってきた部下に一言の叱りも入れず、ユーモアを持って包んでくれた優しさは30年経った今でも決して忘れることはない。 あの所長の一言はその後の私に部下に対する対応を教えてくれたと今でも思っている。 上司はかくあるべき、という一つのことを教えて頂いた。
国連が推奨するSDGsの17のゴールの16番目に「平和と公正をすべての人に」という目標があり、学校や会社におけるいじめや虐待、ハラスメントなどでなくすこと、また困っている人を見過ごさないよう支援をすることが謳われている。加えて少数派や弱者などの多様な意見や視点を積極的に汲み上げることも目標に定めている。 昨今学校や会社で生きづらさを覚える多くの人々がストレスを抱え、人間関係に迷っている。 SNSで認められることで承認欲求を満たし、全く見知らぬ人々からの「いいね」の数で一喜一憂している多くの人たちが確かにいることを考えるとき、本当に身近な人たちとのかかわりが薄くなっているのではないだろうか、と思えてならない。 部下の言葉を聞かない、自分の意見を押し付ける、そんな上司になってはいないだろうか、と毎日自問する。
パンチョス萩原