音(おと)の話 【SDGs 住みやすいまちづくり】

ピッ、ピッ、ピッ、ポーン…

   テレビやラジオでおなじみの時報の音である。音階は、ドレミファソラシドの「ラ」の音だ。ピアノでは左から49番目の鍵盤の「ラ」を3回、そして1オクターブ高い「ラ」(61番目の鍵盤)を1回弾くと一人で時報が流せるので余興に使える。 音の高さ、低さを表す周波数(音が一秒間に何回振動しているかを表した数値)で表すと、最初の「ラ」が440Hz(ヘルツ)、高い方が880Hzである。絶対音感を持つピアノの調律師は、49番目の鍵盤をコンサートピッチ(最初に合わせる音、基音ともいう)として、440Hzの「ラ」の音にまず合わせ(コンサート会場などでは時に演奏者の希望などで442~443Hzに合わせることもある)、そこから隣の鍵盤の音を21/12(2の12分の1乗)ずつ周波数を変えながら調律をするという神業を、自分の耳だけを信じて行なっている(21/12は、1オクターブを12等分した音で平均律といい、12鍵盤先の音の周波数は2倍(212/12)となる)。ギターの場合でも「ラ(A440Hz)」は、5弦の開放弦をチューニングする時の大事な音である。私もギターを弾くことが趣味の一つだが、チューニングマシーンなどない昔は、440Hzの音がなる音叉(おんさ)を用いてチューニングしていたのが、今となっては懐かしい。

   音の周波数についてもう少し調べてみると、一般的に人間の耳に聴こえる音域は20Hz(低音域)~20000Hz(高音域)であることがわかった。ただ、年を重ねていくと、高い周波数帯が聞こえづらくなってくるという。私も早速、聴力を自分でチェックできるサイト(リオネット補聴器HP)で聴きとり可能な周波数帯を調べてみたが、16000Hz音域までは聴こえたが、その上は聴こえなかった。会社で大声で怒鳴られるようなミスを犯しても、上司が17000Hzくらいでしゃべってくれれば、全く何も聞こえないので都合が良い。

   音の周波数が20000Hzを超えると「超音波」と呼ばれるようになり、人間の耳の構造では聴こえなくなる。しかし、そんな超音波をも聴き取っている動物は結構多い。例えば、犬は15Hz~50000Hz、猫は45Hz~64000Hz、イルカは20Hz~150000Hz、こうもりは1200Hz~400000Hzを聴いているらしい。昆虫たちも相当高い周波数帯の音を聴きとることができるらしく、夜行性の蛾などは500Hz~240000Hzだそうだ(出典:音楽研究所HP)。人間から見れば、彼らは間違いなく超能力者たちである。

   音の高さ、低さは上述の「周波数(単位はHzヘルツ)」で表される一方、音の強さ、大きさは「音圧(単位は pa パスカル)」で表される。この単位は気圧にも使われているため、さらに人間が何とか聴くことのできる音圧を20マイクロパスカル(μPa)」と定め、これを基準として聴いている音がどのくらいの大きさかを表すには、「dB(デシベル)」という単位を使う。騒音計などではおなじみの単位だ。夜間の住宅地やホテルの部屋など静かな場所はだいたい30dB、会社や役所の窓口などは50~60dB、レストランやバス車内は70~80dBで、これ以上の音の大きさになると極めてうるさく感じるレベルとなる。パチンコ屋や電車の高架下などが良い例で、90~100dBにもなっている(出典:毎日新聞HP)。

   このように、私たちの周りには、高低と強弱が入り混じった音が満ちあふれているわけだが、いつの時代も「音が問題になる」、といえば、それは「騒音」である。「騒音」は単に聴くに堪えられないような大きな音だけを意味するのではなく、心理的に不快感を催すようなものであれば小さな音も「騒がしい音」なのだ。英語では「騒音」のことを 「Noise Pollution (雑音による汚染)」というから、ほとんど公害扱いである。

   SDGsの17目標のうち、11番目の「住み続けられるまちづくりを」の中でも、音環境は私たちの生活に密接に関係しているため、行政、地方公共団体、企業などが積極的に騒音対策に取り組んでいる。騒音に関する法律は、環境省が、「工場・事業場騒音」、「建設作業騒音」、「自動車、航空機などの騒音」に関わる規制基準を 「騒音規制法」という法律を施行することで監督している。しかしながらこの法律は、「都道府県知事や市長・特別区長が独自に騒音について規制する地域を指定し、規制対象ごとに異なった規制基準等が定めることとする」、という内容になっているため、実際には各都道府県、各市町村によって規制基準はバラバラだ。加えて、隣の家から流れてくるクラッシック音楽や電話の声、犬の鳴き声、水を流す音などは、それを聴く人の主観的な捉え方で良い音にも騒音にも聞こえるため、これらの生活音自体を規制する法律はない。そのため多くの自治体は生活騒音などに関する苦情受付担当者や、配慮すべき指針を設けているが、根本的には、住民同士の良いコミュニケーションとお互いへの配慮に尽きると思う。

   空耳、初耳、聞き耳、僻耳(ひがみみ)、耳年増(みみどしま)、地獄耳など日本語には耳のつく単語が豊富だ。また、耳が痛い、耳が汚れる、耳が遠い、耳が早い、耳に入れる、耳に障る、耳にタコができる、耳に残る、聞き耳、耳に挟む、耳が肥える、耳を揃える…など、  耳を主人公にして人の感情やその場のシーンをほのぼのと浮かび上がらせる熟語も日本人ならではの感覚である。それほど私たちは耳から入る生活音に敏感に反応し、耳からの情報で感情をコントロールしながら生活している。

   環境省は、騒音対策とは逆に「残したい日本の音風景100選」など、かつて日本人が暮らしの中で当たり前のように聴いていた美しい自然の音を大切にしよう、という啓蒙活動にも力を入れている。ヘッドホンで素敵な好きな音楽を聴くのも楽しいが、これからの時期、都会でもコオロギ、鈴虫やキリギリスの鳴き声が聞こえはじめる。移り行く季節の風情を感じながら、人の耳に心地よい自然な音色に耳を澄まそうではないか。

パンチョス萩原

変わりゆくお金 【SDGs イノベーション】

「もしもし」

「もしもし、●●県警の●●と申しますが」

「どのようなご用件でしょうか?」

「実は、窃盗犯があなたが家に保管している箪笥(たんす)貯金の一部を偽(にせ)札にすり替えたという情報を入手しました。偽札はすべて刷られている番号の最後が「4」の一万円札です。これから係員が犯人がすり替えた偽札をお宅に取りに伺いますので用意しておいてください」

   近頃流行りだした新種の特殊詐欺である、と、NHKニュースの「ストップ!詐欺被害。私はだまされない」のコーナーで報じていた。この例では、騙されてしまった方は、最後の番号が「4」の一万円札を箪笥貯金の中から90枚見つけ、警察を名乗り家に出向いてきた人間に手渡すことで被害にあってしまったそうだ。他人事ではなく、本当にこの手の詐欺には気を付けていかなければならないが、よくよく落ち着いて考えてみれば、窃盗犯が箪笥にしまってある現金を見つけたあと、「4」の番号の一万円札だけを偽札にすり替えるような手間をかけるだろうか?間違いなくお金を全て盗んでいくに決まっている。仮に百歩譲って、犯人が偽札に取り換えたとしよう。その場合、一枚ごとに刷られている記番号(アルファベット1~2文字+6桁の数字+アルファベット1文字、例えば「P789647L」や「ZY888666A」など)は全て同じはずだ(でなければ違う記番号で偽札を一枚一枚印刷しなければならず、手間もコストもかかる)。そうなれば、「4」の数字がついている一万円札が偽札だと信じて一生懸命集中して見つけていれば、さすがに同じ番号が何枚も出てくるので、「これは本当に偽札だ」となるが、実際のお札は同じ記番号が一つもないので、「これは怪しい」となるはずだが…。そもそも犯人にしてみたら、箪笥貯金の中の一万円をすり替えるよりも、そのまま偽札を使えば良いのではないか…、と、ツッコミどころが満載の手口ではある。

   残念ながら、特殊詐欺の被害は後を絶たないが、銀行に預けても利息がほとんど付かないこともあって、自宅にいわゆる箪笥貯金をしていらっしゃる方々も本当に多いようである。ちなみに箪笥貯金は、英語で、”under the mattress (アンダー・ザ・マットレス)という。外国では隠す場所が違うのだ。

   実際にこうした箪笥貯金として家に眠っているお金、財布に入っているお金、会社の金庫にしまってあるお金など全部集めた「現金」は日本国内にいくらあるのか? これには日本銀行のHPがわかりやすく教えてくれる。日本国内でどのように現金が流れているのかは、ホームメニューから「統計」を選んで、「資金循環」→「資金循環統計」のデータを見つければよい。しかし、単刀直入に「現金」として流通している量を知りたければ、「教えて!にちぎん」のQ&Aコーナーで次のような回答を見つけた。

Q:「日本で流通しているお札は全部でどれくらいありますか?」

A:「2019年(令和元年)の大晦日、一般家庭や企業、金融機関などで年越しした銀行券(お札)の残高は、合計で112.7兆円(枚数では173.1億枚)でした。これを積み重ねると、約1,731km(富士山の約458倍の高さ)に達します。また、横に並べた場合には、約269万km(地球の約67周分、月までの距離の約7倍に相当)となります。」(出典:https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/index.htm/

豆知識も交えた回答となっているが、例え話が少し難しくてイメージが湧きづらいのは私だけであろうか。いずれにしても、この日本国内のどこかに113兆円にもおよぶ「現金」があるということはわかった。非現実的ではあるが、仮の話で、173億枚もある紙幣がすべて一万円札だとして、それも国民一人一人が持っていることを想像した場合、140枚ずつ持っている計算になるので、相当「現金」が出回っている感じがする。ちなみにそんな「現金」は私の家のどこをひっくり返しても出てこない。

   今日は「現金」の話を書かせて頂いたが、今、このコラムを読んでくださっている方々の中には、毎日「現金」だけをお使いではなく、クレジットカードやスマホの電子マネーアプリでモノを買ったり、公共料金などの支払いをなさっている方もいらっしゃると思う。私の場合は、数枚のクレジットカードと、PASMOやペイペイなどのプリペイド型の電子マネーで決済をする方が「現金」を使うよりも多くなった。日銀では「決済動向」という統計も毎月公表しており、今日現在で最新のデータは2020年5月度の結果がアップされている。その中で電子マネーの決済状況を見てみると、2019年6月から2020年3月までは月当たり5億件を超える決済件数(金額にして4656億円~5776億円)で推移していたが、4月と5月は新型コロナの影響で4億件(4490億円~4814億円)となっている。単純に平均値を計算してみると、一回の決済金額は1100~1200円程度であることがわかる。多くの方々がコンビニや飲食店などの身近なところで気軽に電子マネーで決済していることが浮き彫りになっている。

   今後さらに、スマホからLINE Pay、楽天Pay、d払い、Au Pay、ペイペイ…などを利用したバーコード・QRコード決済や、Apple Watchなどの腕時計型携帯端末を利用した決済などが、どんどん加速していくこととなるだろうと思う。「現金」を使わなくても済む世の中になってきて、生活が便利になってきたことは確かだ。これは、SDGs17の目標のうち、9番目の技術とイノベーションで人々の生活を豊かにしていこうという目標に沿っている。

   さて、これから先、人工知能もスマホに搭載されて、コンビニで買うものまでアドバイスをしてくれる日も来るのだろうか?

パンチョス萩原

障子(しょうじ)の美学 【SDGs 住みやすい街づくり】

   人口減少に伴い、日本では年々住宅着工が減少し続けている。NRI(野村総合研究所)が今年6月9日発表した、「日本における2020~2040年度の新設住宅着工戸数」によると、90年代には160万戸を超えていた着工数は、2020年はコロナの影響もあり73万戸、そして2040年には41万戸まで減少すると予測している。一般的な在来工法で建てられた木造住宅の耐用年数は、法定では22年であるが、たとえそれ以上に住めたとしても2040年までには建て替える必要が必ず来るはずである。これまでの30年間、毎年100~160万戸ほども建てられてきた住宅が古くなり、建て替え需要があるにも関わらず、これからの20年で年間41万戸まで落ち込むということは、内装だけリフォームすることで何とか対応しようという人が増えているケースだけでは説明は困難である。間違いなく、日本が抱える現実、2017年の時点で既に人口の27.7%が65歳以上の高齢者(総務省調査)のますますの高齢化や少子化が加速しつつ人口が減少していく構造や、生活の多様化で子供が東京などの都心に移動することで親が建てた土地に住み続けることがなくなる場合など、さまざまな要因が重なるのだろう。

   それにしても、時代の流れか、いかにも「昭和らしい家」というのが少なくなった。洋風の外装で一室を畳、障子(しょうじ)、襖(ふすま)などを配置した「和風」にする家が大多数なのではないだろうか。もともと伝統的な和の建築には屋根は瓦、外壁は漆喰、土壁、焼き板などを使用し、内装は湿気をコントロールする木、畳、和紙などの自然素材を用いるエコなものであり、高温多湿な風土に合わせて冬は暖かく、夏は涼しく過ごせるように続き間や縁側などの意匠を凝らして生活の知恵が息づいていた。

   それが時代の流れとともに、コストと機能性を重視するプレハブ住宅メーカーの台頭により、屋根は軽くて耐久性の高いスレートや、セメントに無機物や繊維を混ぜて工場でタイル調や石積み調のデザインで洋風の外観にするサイディングの外壁や、壁の中にグラスウールや発泡ウレタンなどの断熱材をいれ、石膏ボードにクロス貼りする内壁など、日本の住宅の大半は洋風建築に変貌した。また、生活スタイルの変化によるアパートやマンションなどの増加も和建築の減少に拍車をかけている。伝統的な和建築では、大工、左官屋、建具屋などの職人の手が入るためコストも高く、工期も長くなるので、今後さほどの和建築再復興は起きないかもしれないが、たまにはそんな日本のエコな住宅のもつ素晴らしさを再認識してみる機会も良いだろう。

   今日はそんな和建築の建具の一つ、「障子」に注目したい。

   和建築の建具の中でも個人的にエコNo.1として一押しなのが、この障子である。平安時代から今に至るまで、さまざまな形のもの、例えば、最もスタンダードな荒組(あらくみ)障子に始まり、横組(よこぐみ)、横繁(よこしげ)、竪組(たてぐみ)、竪繁(たてしげ)、枡組(ますくみ)、吹寄(ふきよせ)、変組または組子(かわりぐみ・くみこ)、などがあり、機能の分類では、水腰(みずこし)、腰付(こしつき)、雪見または摺上雪見(ゆきみ・すりあげゆきみ)、額入(がくいり)、太鼓(たいこ)、猫間(ねこま)、書院(しょいん)、柳(やなぎ)、夏(なつ)障子などがある。障子は美しいだけでなく、自然光を40~50%の通過性に和らげ、和紙や木枠によって室内の湿度を調節し、ガラスとカーテンの組み合わせよりも断熱性と遮熱性が高い。世界中いろいろな建具があるなかで、はて、出入り用のドアとしての機能、風と採光を調整する窓としての機能、必要な時に目隠しとなる防犯機能、手軽なメンテナンス性などを一度に満たすものが障子以外にあるのだろうか?と思う。また、人に与える心理的な作用も秀逸で、障子は自然素材の木と紙でできているため、癒し効果も高く、仄(ほの)かに香る木の味わいと相まって、心身ともにリラックスできる。私自身が障子で好きなポイントは、ピーンと張っている和紙が背筋を真っすぐに伸ばしたくなる緊張感を与えてくれるところであるが、皆様はいかがだろうか?

   SDGsの17目標の11番目に、「住み続けられるまちづくり」がある。都市の住みやすさといえば、安全性、医療の充実、教育施設、上下水道・電気・ガスなどの生活インフラ、自然など多くの基準が頭に浮かぶ。日本の建築が伝統的な和建築だけであった江戸時代までは、日本人は外壁にガラス戸もなく、障子や障子をはめ込んだ戸で快適に暮らしていた。防犯上もかんぬきや横木だけであった。そこには町に住む人々が、お互いに信頼し合い暮らせる、道徳感と安心感にあふれた人間の絆があった。今日のように、防犯カメラが至るところに配置され、犯罪とセキュリティ対策のイタチごっこを見ていると、どんなに素晴らしい街づくりを進めても、住む人の考え方で街は変わる、ということを改めて感じる。障子が家の中心にあった時代の豊かさ、人の在り方に思いを馳せてみたい。

パンチョス萩原

日本の水の管理者 【SDGs 資源】

   現在、私が勤める自動車関連部品会社は、神奈川県秦野市にある。丹沢の山々に囲まれた秦野市は、神奈川県では唯一の盆地である。地下構造が地下水を貯める天然の水がめ(水文地質学上は、地下水を含む「帯水層」が多数集まる「地下水盆」)の構造となっているため、周囲の山々から長い年月をかけて、じっくりと、しかし豊富に秦野市の地下水は蓄えられているのだそうだ。秦野市のHPによると、地下水量は膨大で、およそ2億8千万トンに及ぶ。また、現在では市内の21箇所で天然の湧き水が湧き出している。その一つが私の住むアパートから徒歩10分のところにある。1200年の歴史を刻み、水を司る神様として知られる曽屋神社の境内にある「井之明神水」と呼ばれる御神水である。人がほとんどいない静寂な神社の裏手にこんこんと湧いており、近隣の人々がペットボトルや水筒を持参して天然のミネラルウォーターをありがたく頂くことができる。何でも秦野市は、明治23年に函館、横浜に次ぎ、日本で3番目の近代水道の給水が開始された地域でもあるそうだ。

   綺麗な湧き水は全国的にも有名で、私自身は秦野に来る前は全く知らなかったのだが、環境省が平成27年に実施した全国200箇所の名水を対象とした「名水百選選抜総選挙」では、「おいしさが素晴らしい名水部門」で、総投票数13329票中、7504票を獲得し、見事1位となっている。そんな美味しい天然水を秦野市では水道の蛇口から飲める。湧き出る天然水に必要最低限の塩素消毒加工を施して水道水となっているからである。秦野市ではこの水道水をペットボトルにつめて、「おいしい秦野の水〜丹沢の雫〜」という商品名で販売しているが、秦野市民にとっては、同じ水が家の蛇口をひねれば出てくるのだから、何とも贅沢な話である。しかも水道代は東京都よりも確実に安い。

   ふと、日本の水の管理は誰が行なっているのだろうか?という疑問が湧いたので、水道局や関係省庁などの情報を手当たり次第に調べてみたところ、それぞれの管轄は以下のようであることがわかった。

1.飲料水→厚生労働省

2.工業用水道→経済産業省

3.ダム・水資源→国土交通省

4.水産物・農業用水→農林水産省

5.日本の名水→環境省

   興味深い事実としては、上記5つの省に加え、学校のプールは「遊泳用プールの衛生基準」という観点から文部科学省が管理している。具体的な管理は各省庁内の水担当部署や外部団体によって管理されていて、例えば、農林水産省では農村振興局整備部設計課、水道課、林野庁、水と緑の田園通信など、経済産業省では資源エネルギー庁など、国土交通省では、土地・水資源局(水資源)、都市・地域整備局(下水道)、河川局などがそれぞれ管理している。ここまでお読みになって感じる方も多いと思うが、日本での水の管理はものすごい縦割り行政なのだ。これに地方公営企業法の適用を受けて地方公共団体が運営する上水道の供給を所掌する水道局が各都道府県の市町村にあり、世界でも有数な日本の安全な水が管理されているわけだ。

   一つの資源がこれほどまでに細分化されてさまざまな組織で管理されているものは水しかないであろう。あまりにも縦割りすぎることから、現在では、それぞれ水を管轄する関係5省は、「健全な 水循環系構築に関する関係省庁連絡会議」を発足させており、健全な水循環系構築のために協力体制を敷いている。また、水質管理などでは、地域の状況によって各地方自治体が条例でさらなる規制を敷いているところもある。

   余談かもしれないが、現在の新型コロナの殺菌に有効だとされる消毒水「次亜塩素酸水」は、消毒や除菌方法については厚生労働省と消費者庁が協働して管轄しているが、次亜塩素酸水自体の品質については経済産業省の管轄となっていることが経済産業省のHPを見る限り分かる。かように分断されている現在の行政では、水を一元管理する省庁の設立や、水担当大臣などは、ほぼ実現しないであろうと思う。消費者の立場としては、水というかけがえのない資源や附帯する管理に対し、国や都道府県がこれからもさらに風通しの良いコミュニケーションによって、迅速に対応して頂くことを祈念するのみである。 

   「金を湯水のように使う」という諺が存在し、安全な水を当たり前のように日々得ることができる日本において、世界の水問題を理解し、そのために働きかけをすることは大切なことである。TOTOのHPに世界各国の各家庭が毎日使用する水量が国ごとにグラフに表されて掲載してあるが、それによると、世界の平均では一人当たり186リットルだそうだ。日本人は平均のおよそ2倍にあたる300リットル以上使っているらしい。年で換算すると、一人当たり135トンにもなる。TOTOの調査によると、風呂とトイレの使用量が61%を占めており、次いで炊事が18%、洗濯が15%と続く。今の日本はふんだんに水を使っても枯れることのない豊かな国の印象があるが、水資源は確実に年々減っている。水の大切さを改めて認識したい。いかに縦割り行政、多くの組織で水が管理されようとも、最終的に使う消費者である私たちに、この国の水資源の行く末は託されている。

パンチョス萩原

正反対の気持ち 【SDGs ディーセント・ワーク】

   先日、色についてのコラムを書かせて頂いた。人の目が見ている物体の色は、その物体が反射している色なのだが、別の言い方をすると「反射される色は、その物体に吸収された色の補色(反対の色)」ということになる。この補色にはとても興味深いことがある。今日は「補色残像」という現象について話をしてみたい。

   人間の目は、同じ色をしばらく眺めた後、別の場所に視線を移すと、その色の補色、すなわち反対の色が目の中に残像を映し出すことがある。原理はわずか0.1~0.4ミリの網膜にびっしりと存在する錐体(すいたい)細胞が、同じ色を見すぎて疲れてしまい、見ている色以外に対してのみ反応するようになるため、その反対色が目の中に残像として残るらしい。

   この補色の残像作用をうまく利用しているものは意外と日常生活にある。 例えば牛乳パックは青い色をしているものが多いが、これは青い色をした牛乳パックを眺めた後に牛乳が注がれているコップを見ると、そこに青の補色である黄色が残像として映ることで牛乳の色が濃厚でおいしそうに見えることを利用している。また、「アンサング・シンデレラ 病院薬剤師の処方箋」や「トップナイフ―天才脳外科医の条件」など、最近医療・病院系の人気TVドラマをご覧の方も多いと思うが、ほとんどの場合、手術室の色や医者と看護師が身に着けるマスクやユニフォーム(スクラブやケーシー)は薄緑色か青色がほとんどだ。これは、治療や手術などで長時間赤い血を見続けると、補色のうす緑色が残像として映るため、周りが白いと残像がちらついて医者や看護師にとって強いストレスとなる。その残像によるストレスを少しでも軽減するためにあえて薄緑色や青色にしているのである。 

   この残像現象を初めて世に伝えたのは、ドイツ出身の劇作家、詩人、哲学者、自然科学者、小説家として知られるゲーテだそうだ。ゲーテは20年間もの間、さまざまな色彩現象について研究し、1810年、彼が61歳の時に『色彩論』という本を発表している。

   補色残像は見ている色の反対色が残像として残るいわゆる目の構造上の現象であるが、人の心にも同様に思っていることと全く反対の感情をもつ心理現象が起きることもある。「反動形成」である。 平たく言うと、本当に思っていることと反対のことをあえて言ったり、本当にしたい行動と全く逆の行動をとったりすることだ。心理学的には、自我の防衛機制(危険や困難に直面した場合や、とても受け入れがたい苦痛・状況にさらされた場合に、自分が壊れてしまう前に無意識に作用する心理的なメカニズム)の一つである。

   反動形成の具体例は私たちの生活の中で枚挙に暇(いとま)がない。例えば、心から好きだった相手に失恋したときに、「ぜんぜん自分のタイプではなかった。付き合わなくて良かった」とか言って平静を保ってみたり、最後にあと一つ残った美味しそうな餃子を食べたくてしょうがないのに遠慮して「もう、おなか一杯だから、どうぞ食べて、食べて」などと痩せ我慢を言ったり、嫌いでしかたがない上司に敢えて良い部下として振舞ってみせたり…。イソップ童話に登場する「きつねとぶどう」の話も、きつねが美味しそうなぶどうを取ることが出来ず、悔しくてしかたがなかったので、そのままでは自分自身に相当なストレスが生じてしまうために、無意識に「ぶどうはを酸っぱくて美味しくないに決まっている。誰がこんな美味しくないぶどうを食べるものか。食べなくて正解だ」と、自己正当化した、反動形成の代表例のような物語である。

   人は時折、無意識に自己の能力の低さを正当化したり、擁護するために、本当は素晴らしいと心から思っている対象を貶めたり、価値の無いものだと主張することがある。この、いわゆる「負け惜しみ」は明らかに自分の考えている本当の気持ちと全く正反対の感情表現だ。この反動形成という行為によって何とか心のストレスを抑えようとするが、負の感情がさらにエスカレートしてしまうと、自分に対して過度の劣等感を持ったり、嫉妬心から攻撃的な行動へと発展してしまうことがある。

   チューリッヒ生命が2018年4月に20~59歳の有職者1000人を対象に実施した「ビジネスパーソンが抱えるストレスに関する調査」の結果が発表されたが、ほぼ70%の人々が何らかのストレスを抱えており、ストレスのランキングでは、1位「上司との人間関係(38.9%)」、2位「同僚との人間関係(29.0%)」、3位「仕事の内容(27.2%)」、4位「仕事の量が多い(26.8%)」、5位「給与や福利厚生などの待遇面(25.6%)」であった(出典:マイナビニュース 2018年5月16日)。 苦手な上司との「ぎこちないコミュニケーション」は私も経験豊富な方なので、調査結果に共感してしまうが、同時にどれだけの反動形成がストレスを感じている人々の中で起きたのだろう?とそっちの興味も湧く。

   SDGsのテーマである、働き甲斐のある労働環境の実現には、本当の意味での良いコミュニケーションとお互いを多様性を持って受け入れあうことがかかせない。ストレスは決してなくならないが、このストレスといかに付き合っていくかを学ぶためにも、もっともっと自分自身のことを知る機会を増やしていきたいと思う。

   反動形成自体は決して悪いことではなく、単に心が強いストレスを感じた時、自分がそのストレスに押しつぶされないように防衛本能が働いているのであって、あえてコントロールしようとせず、うまく付き合っていく以外にないと個人的には思う。

   チューリッヒの調査では、「独自のストレス発散方法」も同時に聞いている。結果は、1位「美味しい物を食べる(48.4%)」、2位「身体を動かす(34.3%)」、3位「睡眠・休息をとる(33.4%)」、4位「趣味に没頭する(30.9%)」、5位「お酒を飲む(21.9%)」だそうだ。私の場合は趣味に没頭だが、さて皆様のストレス解消法は?

パンチョス萩原

エフピコの魅力 【ESG】

   この頃は深く考えることもなくなったが、この15年間、会社は何回か変わったものの、基本的に単身赴任暮らしである。もっぱら食事は外食であったが、最近のコロナ禍では生鮮食品や惣菜を買ってきて、アパートで食べることがほとんどである。今週は何を作って食べようか?と日曜日の午後にその週の献立プランを立て、買い物リストを片手にスーパーマーケットに出向くのが現在の私のライフワークとなっている。買い物リストに載っている食材も値段を見たとたんに買う勇気がなくなったり、予定にはなかった特売品の誘惑もあって、買い物途中に戦略を変えることも多い。そんな巣ごもり消費者の一人である私にとって、惣菜コーナーは本当にありがたい。いかにポテサラ論争のような議論が起きようとも、国内の惣菜市場規模は10兆3000億円ほどにもなっている。個々のニーズに合わせて惣菜を上手に購入する人たちがウィズコロナ環境下でさらに増えている。

   それにしても、新型コロナは日本経済も人の生活もガラリと変えてしまった。

   来週8月17日(月)に内閣府は4~6月期の物価変動を除いた実質の国内総生産(GDP)を速報で発表するが、おおかたの民間シンクタンクは、リーマン・ショック時を上回る低い数値を予想している。しかし、緊急事態宣言後の自粛による経済停滞から、著しく業績が悪化している多くの上場企業の中で、逆に急成長と遂げている会社も垣間見える。ステイホームやソーシャルディスタンスが追い風となって売り上げが伸びているゲーム、ネット通販、動画配信などの企業だ。今や「巣ごもり銘柄」と呼ばれ、上昇ランキングなどで投資家を沸かせている。

   しかし、そんな巣ごもり銘柄を尻目に、殊更に市場から高い評価を受け、安定的な成長を遂げている会社がある。株式会社エフピコ(FP Corporation)だ。

   株式会社エフピコは、ポリスチレンペーパーおよびその他の合成樹脂製簡易食品容器の製造・販売、並びに関連包装資材等の販売、簡単に言えば、スーパーの肉や魚、惣菜などの食品トレーやお寿司・弁当などのプラスチック容器を製造・販売する会社だ。本社は広島県福山市と東京都新宿区に2つの本社を持ち、現在の従業員数は885名、関連子会社を含めたグループ全体の従業員数は4484名である。国内ではおよそ100社が市場参入する食品トレー業界の中で、ダントツのシェア30%を誇る。巣ごもり需要が追い風となって、2021年3月期のグループ連結純利益は前期比5%増の112億円と創業以来の業績を予想する。 「エフピコ」という社名は、昭和37年(1962年)に広島県福山市で創業した当時の「福山パール紙工株式会社 Fukuyama Pearl Co., Ltd」の英語名のイニシャルからきている。

   地方の小さな会社からスタートし、食品トレー業界では後発メーカーであったにも関わらず、どのようにして他の追従を許さない会社へと変貌を遂げたのか? 私なりの分析をしてみたい。

   最初の強みは、トータルコストを最適化する一貫したSCM(サプライチェーンマネジメント)システムである。エフピコでは全国9つの営業所、19の生産工場拠点、3つのリサイクル工場を有機的に結ぶイントラネットを充実させ、需要予測、販売計画、生産計画、金型計画、物流計画、在庫計画を一元管理している。膨大な数に及ぶ全国のスーパーマーケットや飲食店がいつどれだけ食品トレーやプラスチック容器を必要としているかを予測し、スーパーや飲食店に納期までに届く時間を逆算して生産をするのは極めて困難なことであり、普通なら安全を見て、どうしても無駄な在庫まで作りすぎてしまう。ところがエフピコは、強靭なSCMシステムを駆使して最適な供給体制を敷いている。また、コスト削減効果の大きい需要地生産を拡大し、納品先への効率的な配送を可能することによって流通コストの最適化も果たしている。早い話、東京近郊のスーパーへの製品供給はなるべく近くの工場でつくるというわけだ。私も現在、プラスチック射出成型で製造する自動車部品工場でサプライチェーンを担当していてエフピコのSCMシステムがどのような構造なのかは理解できるつもりだ。しかし現場では、トレーを製造するために必要な金型はトレーの数だけ準備しなければならないので、このチャレンジが相当大変なものであることは想像に難くない。

   2つ目の強みは、製品における発想の豊かさだ。私が小さかった頃は、お店で売っているお寿司やお弁当のプラスチック容器には何の模様もついていなかったが、いつからか高級な和柄がプリントされた容器となった。今では当たり前のこれらカラートレーは、エフピコが日本人の食文化に食器にこだわることに注目して開発した製品である。あたかも高級な漆塗り食器のような柄のトレーでお寿司弁当がスーパーで売られているので、トレーのままでもお寿司がとても美味しい。年々トレーの大きさも千差万別になっているが、その声に応えるためにエフピコでは年間2000以上の新製品を開発しており、広島県福山市の総合研究所をベースに日夜研究を怠らない。

   3つ目の強みは製品のリサイクルである。食品トレーやレンジで温めることができるプラスチック容器の主たる原料は、ポリプロピレンやポリエチレンで、もともとは石油から作られるため、原油価格の変動に影響を受ける。エフピコは、時代がリサイクルによる持続可能な社会や環境問題の重要さを論じる以前の1980年代に、既に食品トレーやプラスチック容器の回収およびリサイクルという問題に取り組んでいた。環境問題、特にCO2削減に会社として貢献すべく、使用済みのトレーの回収を1980年から始め、回収したトレーをリサイクル工場で再加工し、「エコトレー」という登録商標でも知られる再生プラスチックを使用したエコな製品を販売してきたのである。 消費者からの使用済みトレーの回収は、30年ほど前からスーパーマーケットに専用の回収ボックスを置いて開始した。現在この回収ボックスは日本全国のおよそ9200箇所のスーパーマーケットに置かれている。この使用済みトレーや容器の再利用に、エフピコは「4者一体」のリサイクルシステムを提唱している。4者とは消費者・スーパーマーケット、包装問屋、エフピコ(再利用生産者)のことだ。 また食品トレー以外の製品リサイクルにも力をいれている。2017年10月には157億円をかけて、使用済みペットボトルから食品容器を作る工場を茨城県八千代町に建設している。いまやエフピコの再生食品トレーの比率は全製品の44%となっている。

   最後の強みは、ESGのソーシャルな課題に対する強い取り組みだ。エフピコは障がい者雇用に特に力を入れており、2020年の現在、全社員のうち、13.3%を占める障がい者の方々が、製品製造部門とリサイクル事業の部門で仕事をしている。

   エフピコの大きな魅力は、顧客への供給責任、商品開発、リサイクルによる再生プラスチック利用や障がい者雇用といった独自のESG活動など枚挙に暇(いとま)がない。今後はさらに市場からは熱い視線が注がれると思う。コロナ禍で世界的にも生鮮食品向けの容器需要が急増している。

   意外なことに海外へ進出する気はない、という。知れば知るほど、この会社の経営姿勢、経営者の考えに魅力を感じる。

エフピコのESG: https://www.fpco.jp/esg.html

パンチョス萩原

金閣寺と銀閣寺 【SDGs 気候変動】

   美大で学んでいた時の教養科目に「環境学」があった。教えてくださったのは渡辺堯(たけし)教授で、日本の電波天文学の第一人者である。純粋に絵を描きたかった学生らにとっては、単位1つのために3日間もぶっつづけに難しい講義を受けなければならないのは辛かったのであるが、渡辺教授曰く、「世に溢れる迷信、偽科学、偏見、政治的思惑に基づく妄論、暴論に惑わされない知性を科学を持って養うことを目的とした授業」ということであった。 結局3日間で宇宙物理学、天文学、地質学、気象学、航空力学、電子工学、光学、量子力学などからさまざまな難しいことを教えて頂いた訳であるが、大部分は単位取得試験が終わったとたんに、残念ながらあっという間に忘れてしまった。今日はそんな授業の中で取ったノートを見ながらこのコラムを書いている。

   渡辺教授の授業で特に興味深かったのは、地球環境の歴史であって、これはしっかりとノートに内容が書きうつされている。地球には氷期(寒い時期)と間氷期(暖かい時期)が10万年の周期で訪れるということだ。地球は中心軸(北極点と南極点を結ぶ地軸)が23.5度ほど傾いた状態で太陽の周りを廻っているが、なんでもこの軸の角度が木星や土星の引力の影響を受け、少しズレることで太陽を廻る軌道にも変化が起き、北極・南極に照射される太陽量も周期的に変わり、地球の地表温度が変わるということがわかっているらしい。これは20世紀に入り、セルビアの地球物理学者ミルティン・ミランコビッチ氏によって発見された。すごい発見だったので、ミランコビッチ氏の肖像はセルビアの2000ディナール紙幣にも使用されているほどだ。 

   地球上の生物は、この大きな氷期と間氷期のうねりの中で栄枯盛衰を繰り返している。 今から5000年前に古代の四大文明がそれぞれの地域の大河流域で同じ時代に栄えたのは、地球の氷期に関係があるという(およそ1万年前の最後の氷河期のあと、5000年前まで温度が上昇し続け、それが終わるとまた寒い乾燥期となり、農地に適した土地が減少したために人々が一箇所に集まることで人口の集中化が生まれたことにより文明が発達した)。 その後温暖化とともに、人々が一極集中であった地域から散らばっていくのだが、やがて3500年前ほどに再び寒冷期が訪れ、暖かい地域を求めて世界同時多発的に民族が移動したのである。日本史も世界史もただ年号を覚えるのも良いが、その当時の気候がどのようなものであったかと合わせて覚えると、とても理解しやすいように思える。

   日本でも弥生時代以降は、100年単位でその当時の気候がどのようなものであったのか、という研究が進んだ。例えば、平安時代後半~鎌倉時代~室町時代前半は日本はとても暖かかったことが分かっている。温度計もない時代なのに何故?ということになるが、地質を科学的に調べたりすることはもちろんであるが、当時読まれた和歌や書かれた書物、天皇の行事の様子や花の開花時期、渡り鳥の飛来記録なども含めて分析をするのだそうである。 室町時代後期~江戸時代初頭は、それまで温暖であった日本がいきなり寒い時期に突入した時期にあたる。室町時代は約180年間に渡って続いたが、前期と後期の建造物を見ると、いかに日本の気候が変化したのかが顕著にわかる。金閣寺と銀閣寺だ。

   京都の金閣寺(鹿苑寺)は、応年4年(1397年)に足利義満が建立した。建築様式は平安時代の代表的な建築物である平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂などに見られる「寝殿造(しんでんづくり」」である。寝殿造の特徴は、外壁がほとんどなく、日中はすべて柱と柱の間にある開閉式の蔀(しとみ)を開けっぱなしにして、外からの風を室内入れる開放的な作りである。小中学校の歴史の授業では、寝殿造は貴族が暮らす大きくて豪華絢爛な屋敷、みたいなことを教わったが、それでも寒ければ風がスース―するこんな家に一年中住めるはずがない。足利義満が金閣寺を立て、金箔で建物を覆った背景には単なる金持ちとしての見栄だけでなく、温暖な気候による心の余裕があったのではないかと拝察する。

   一方、金閣寺から約100年後の銀閣寺(東山慈照寺)は、文明14年(1487年)に足利義政によって建設が開始され、彼の死後、延徳2年(1490年)に完成して出来た菩提寺である。建築様式は「書院造(しょいんづくり)」で間仕切りが多いのが特徴で、座敷、床の間、付書院、棚、角柱、襖、障子、雨戸、縁側など、現代の建築にもみられる要素が含まれており、江戸時代まで武家屋敷などで見られた様式である。東山文化の真髄たる「簡素枯淡の美」を映す建築物として有名となったが、温暖な気候が寒冷期に入ってから建てられているために、風通しもよく、屋根も緩やかで煌びやかな金閣寺からたった100年の間に、防寒に優れ、雪を配慮した勾配のある屋根を持つ銀閣寺にいきなり建物様式が変わっている。銀閣寺建立の少し前には、室町幕府管領家である畠山氏、斯波氏の家督を争う騒動に始まり、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展した後、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に拡大して11年間も続いた応仁の乱が起きている。

   人は気候が寒くなると、体温が奪われ、代謝が落ちてしまうために交感神経が活発となり、気持ちもこわばることで、民衆の騒動や百姓一揆などと寒冷気候との相関が高い、と渡辺教授は言っていた。なるほど、南北朝時代や戦国時代の混乱は、本当に気候変動の影響があったのかもしれない、これは試験に出るかもしれない、と私は、金閣寺と銀閣寺の建築様式や時代背景を必死で記憶した覚えがある。しかし、それから7年後の2016年11月9日の読売新聞に、東京大学大気海洋研究所の研究記事が「平安、戦国の動乱、“寒冷“が原因?」というタイトルで載っていた。どうやら動乱が起きたのは寒冷が本当に関係しているかもしれない、という内容だ。2009年当時、授業の中で同じことを言っていた渡辺教授に改めて敬服する次第である。

   お盆ウィーク中も日本列島は、酷暑に見舞われ、日中は外にも出たくない暑さに見舞われている。また昨今は想定外の異常気象による自然災害が起きており、温室ガス効果による地球温暖化が原因ではないかとの声も多い。SDGs 13の目標である「気候変動及びその影響を軽減するための緊急対策を講じる」には、単に地球温暖化をなくす努力をしよう、というだけではなく、「自然災害に対する強靭性(レジリエンス)及び適応の能力を強化しよう」という行動目標がある。

   天気や気候を自分で変えることはできないし、災害を防ぐことにも限界はある。人類が歴史上どのように気象変動に適応性を持って対処したのか、を改めて学び直し、現代にも活かせる手掛かりを見つけたい、と思う。

パンチョス萩原

自然界の色 【SDGs 平等】

   いわゆるビジネススーツには、左の襟にボタン穴があるのが一般的だが、その理由は、スーツの起源が軍服や騎士のゴルジェであるからだ。昔の軍服やゴルジェは、兵士が馬に乗って戦う際に首元を守るために襟高でボタンをしっかり留める構造になっていた。それらの服はやがてフォーマルな場で着るフロックコートへ変容を遂げ、今の形のスーツになった訳であるが、襟元でボタンを留めていた頃の名残りを残し、今でも襟にボタン穴があいているらしい。19世紀に入り、そのボタン穴にイギリス皇太子エドワード8世が花を挿して貴族のパーティに出たという話から、今ではこのボタン穴はフラワーホールと呼ばれている。一般の現代人はさすがに花は挿さないと思うが、会社に勤める人々は自分の会社の社章を留めていることが多い。

   最近ではこのフラワーホールに社章ともう一つ、17色のリング状のバッジをつけている人たちを見かけることが多くなった。国連をはじめ、今では政府、地方公共団体、教育機関、民間企業も取り組んでいる「持続可能な開発目標」の17の目標を表すカラーサークルである。国連グローバル・コミュニケーション局は、カラーサークルをはじめ、SDGsのロゴや17の目標のアイコンにおけるデザインや色の使用について詳細なガイドラインを出している。特に17の目標に使用されるアイコンの各色は、CMYK(色の三原色であるシアン・マゼンタ・イエローとブラック)、およびRGB(光の三原色であるレッド・グリーン・ブルー)の割合が明確に定義され、それ以外の色構成は禁止されている。例えば、SDGs目標1の「貧困をなくそう」のアイコンに使用される色は、CMYKで「C 1 M 100 Y 92 K 0」、RGBで「R 229 G 36 B 59」と定義されている。 指定された色の合成によって、あの鮮やかな赤い色となっているのである。

   色の三原色、光の三原色と言われても、電子関連の研究所、美術、デザイン、インテリアコーディネイト、映像技術などの学校、もしくはコピー機やテレビなどの電子光学系製品の会社などならともかく、一般にはあまり馴染みがないであろう。 色のことを学ぶとなると、色と光の三原色とそれぞれの補色に加え、網膜の錐体(すいたい)細胞や光の波長など、今まで聞いたこともない科学的なことがたくさん出てきて大変である。私も、かつて学校で絵を学んだ時にこの辺の知識は叩き込まれたことがあるが、理屈ではわかるが、直感的に理解できないことばかりである。今日はそんな「色」にまつわる話を少し書きたい。

   そもそも太陽光は、人間の目では見えない紫外線や赤外線なども含み、可視光線のあらゆる色が出している波長が混ざりあっているために、それ自体に色はない、というか、人間の目には太陽光の色が認識できない。 光が私たちの身近にあるものに当たると、それぞれの物質が光を反射するので私たちにはその物質が見える。この原理は小学生の理科の授業ですでに習っている。では、何故「葉っぱが緑に見えるか?」と聞かれてもすぐに答えることは難しい。たとえ答えが「葉緑素が光合成をするエネルギーのために太陽光から赤い光と青い光を吸収し、吸収しない緑色の光(赤と青が混ざった色であるマゼンタの補色)だけを反射するので緑に見える」と言われても何のことかわからない。

   光と色で理解しておきたいことは、光はすべてのものに平等に同じ割合で当たってるのだが、物質が吸収する色がそれぞれ違うので、物質から反射される色が別々である、ということだ。科学が苦手な私なりの例をあえて作ってみるとこうなる。ここに千円札、五千円札、一万円札が1枚ずつあり、合計は一万六千円である。千円札を光の三原色の赤、五千円札を緑、一万円札を青とする。光の三原色は同一に混ざると白になるために合計した一万六千円(三枚のお札を束ねた状態)は白とする。いま太陽が一万六千円ずつを、この世にあるすべてのものに平等にあげるのだが、葉っぱは三枚のお札の中から千円札(赤)と一万円札(青)を取り、五千円札(緑)だけを返す。 リンゴやイチゴは五千円札(緑)と一万円札(青)を取り、千円札(赤)だけを返す。ガードレールは一万六千円を受け取っても一切受け取らず、全部のお札を返すから白く見える。 茶色、水色、紫、黄緑…などの色に見えているものは1円玉、5円玉、10円玉、50円玉、100円玉、500円玉などでお札以下のおつりを返していると考えてよいだろう。要するに私たちの目は、太陽が一万六千円をそれぞれの物質にあげたときに、それぞれの物質が返した「おつり」の金額を見ているようなものである。 日差しが強くなればなるほどできる影が暗く見えるのは、一万六千円を受け取った影がすべて自分の懐に入れて何も返さないためだ。すべての光が吸収されてしまうと私たちの目にはその物質は全く映らなくなる。夜が暗いのはそのためだ。

   このように、この世にあるすべてのものは太陽から同じだけの光を平等に注がれているが、それぞれの色の吸収性が違うために、それぞれの個性でいろいろな色に輝いている。私たちの生きる社会も同じように、本来ならばこの地球上で暮らす全ての人々に平等に教育、食糧、衛生環境、雇用の機会などが与えられ、その中で一人ひとりが幸せに輝くべきであるが、2020年の現在でも貧困が原因で普通の教育を受けられない6歳から14歳までの子供たちが世界で1億2400万人おり、7億人を超える子供たちは教育が不足しているために文字の読み書きができない。 国際NGOオックスファム・インターナショナルは、世界の最富裕層2153人が最貧困層46億人以上の財産をもっていると今年の最新の調査で報告している。また、全世界のどの国でも、ジェンダー、人種、民族、階級、宗教などで所得の不平等な扱いを受けている多くの人々がいる。 

   全世界の誰ひとりも取り残されないためにも、平等にすべての機会が与えられる社会が必要なのだ、と、自然界で輝く色を放つすべての物質は、私たちにそう教えてくれているように見える。

パンチョス萩原

自分の中の多様性 【SGDs ダイバーシティ】

   ずいぶん前に「タイタニックジョーク」というのがあった。

   ある船にいろいろな国の乗客が乗っている。ところが船は今にも沈没しそうである。船長は乗客に海に飛び込むよう説得しなければならない。さて、船長はどう説得して飛び込んでもらうか?

アメリカ人には、「いま飛び込めば、ヒーローになれますよ」

ドイツ人には、「飛び込むのがルールとなっています」

イタリア人には、「美女がたくさん飛び込みました」

フランス人には、「決して飛び込まないでください」

ロシア人には、「極上のウォッカが流されていますよ」

日本人には、「もうみんな飛び込みましたよ」

   あくまでも、それぞれの国民の典型的な性格や行動様式を題材にしたユーモアであるが、今の時代では民族や人種差別的な要素を含んだブラックジョークと非難される方々も多いかもしれない。 しかしながら、他人と同調する傾向のある日本人は、意外とこういった典型的な性格や行動様式でものを考えることを好むのも事実である。例えば血液型では「A型は気配り型で神経がこまやか、失敗するといつまでもくよくよする…」とか、星座では「天秤座の人は上品なセンスで平和主義者…」とか、本来何の根拠もないはずなのに、ちまたではあたかも真実であるかのような定義までされている。 そのほか、干支、世代、性別などでも共通項を見出したりする。 日本テレビ系列で現在放映中の「秘密のケンミンSHOW極」は都道府県ごとに共通しているように見える行動様式に共感を誘うバラエティー番組となっている。 

   私が今から4年前、産業カウンセラーの資格をとる勉強をしていた時、人がこのようにフレームにはめてしまうことを心理学では「認知バイアス」と呼ぶ、ということを学んだ。これは誰にでもある思考の偏り(かたより)であって、残念ながら一度そう思い込むとなかなか考え方を変えるのは難しい。テレビで好きなタレントが単なる一個人の意見として言っているコメントであっても、自分に都合がいい部分だけを信じてしまうために、それ以外の意見などない、との先入観や思い込みから状況を判断してしまうのはその典型例だ。 また、新型コロナの感染者が増えている中で、人の移動を容認しての経済再生か感染者を増やさない自粛継続かで意見が分かれているところであるが、新型コロナ自体が前人未踏な出来事であり、正解など誰にもわからないし、状況も地域によってケース・バイ・ケースであろう。 そんな不安な中で、一旦、非常に影響力のある有名人がSNSに自分の意見を述べ、「いいね」の数が数万件になっていたりすると、「多くの人がみんなそう思っているのだから、きっと正しいのだろう」と、他人の動向を見た上で自分の意見や行動を決めようとする「同調行動」が起き、反対意見を言う人たちを非難するようなことは、すべてこの「認知バイアス」から起きていると思う。

   驚くことに、この「認知バイアス」は、他人に対してだけでなく、自分の身にも普通に起こる。何か新しいことを始める決心をしたとしよう。最初は情熱を持って始めるが、そのうち「私は長続きしない性格だから」とか、「O型は大雑把だから」とか、勝手に決めつけてしまい、今度はそのことを無意識に「続けない理由」として正当化するようになる。私たちの身近なところではダイエット、英会話、筋トレ、ボランティア…など、楽しみながら少しずつマイペースでチャレンジできる多くのテーマがあるが、検定試験合格とかいうならまだしも、本来、最終的なゴールの定義などない、いわばそのエクササイズや勉強の過程自体を楽しむべきものに対しても、自分の性格や境遇などを理由に断念してしまうケースも多い。 

   さらに、自分自身の性格や行動を決めつけてしまう認知バイアスは、事実の捉え方すら変えてしまうことがある。例えば、ある男性が好意を抱く女性に告白し、「ごめんなさい。あなたとは付き合うことはできないの。」と言われ、「あぁ、僕はもう終わりだ。生きていてもしかたがない。」となったとしよう。個人的にかなり共感できる話ではあるが、心理学的には、この男性が「生きていてもしかたがない」、と判断した固定観念、すなわち「自分は好きな人からフラれた価値のない人間だ→価値がないのだから生きる意味がないのだ」としたところに問題がある、と指摘する。男性ならば好きな女性にフラれたら死ぬほど辛いが、世界中の多くの男性は同様なことを経験しており、「死ななければならないという理由」にはならないはずである。「フラれてしまった。さらに男を磨いて再チャレンジしよう」とか、「今、その人に付き合っている人がいるならしかたがない。辛いけれど来年までに彼女を見つけよう」とか、考える人も中にはいるのである。しかしながら、この男性が論理的に「失恋→死」を定義している場合、死はこの男性にとっては正しい判断なのである。

   アメリカの臨床心理学者アルバート・エリス(1913年-2007年)は、こうした間違った事実を「イラショナル・ビリーフ」と呼び、別の正しい事実「ラショナル・ビリーフ」を導き出して考え方を変え、うつ病などの精神的な疾患をいやすための理性感情行動療法(REBT)を唱えた。このREBTは、現在でも認知的アプローチの認知行動療法や、ビジネスでも、パフォーマンスの促進、目標達成・自己の実現、リーダーシップ、コーチングなどで活用されることも多い。

   多様性を尊重し、他者の考え方・価値感を受け入れよう、という行動はSDGsでも大切な目標となっている。同様に自分の中の多様性をもっともっと柔軟に受け入れてみてはどうだろうか? あまり固定観念に縛られず、結論を急がず、自らの弱さも含めて受け入れ、「自分大好き!」となりたいと思う。

パンチョス萩原

懐石料理の本当の味わい 【SDGs 持続可能な生産消費形態】

   お盆休みに入り、本来ならば里帰りに行ったり、海水浴やキャンプなどに出かける絶好の機会であるはずなのに、今年は「外出自粛」という、これまで経験したこともない過ごし方をしている。 スマホは普段からあまり見ない生活をしてきたが、家にいることが多くなった5月以降は以前よりはスマホを手に取る機会が増え、行きたくても行けない観光地のHPを見ては行った気持ちになったりしている。京都もそんな場所の一つである。

   私は絵を描くことが好きであり、かつて仕事の傍ら、京都造形芸術大学の美術科で日本画を学んだことがある。仕事をしながら勉強することができる通信学部に通ったが、内容は本科と同等のものであった。 授業は日本画自体以外にも学ぶものは多く、教養科目にはアジア・ヨーロッパの美術史をはじめ、学術論文の書き方、茶の湯、街の出来かたを学ぶためのフィールドワーク、ひいては物理学などもあった。スクーリングの授業は京都市左京区の北白川キャンパスで開講されることが多かった。京都駅からは市バス5系統(銀閣寺・岩倉行)に乗り、「上終町京都造形芸大前」というバス停で降りれば目の前に大学はある。 京都造形芸大生は、京都市内の美術館・博物館は学生証を見せればすべて無料で閲覧できるというメリットがあったので、授業ではよく細見美術館や住友コレクションで有名な泉屋(せんおく)博古館にも出かけた。今日はそんな日本画を学んでいた2008年当時に野村美術館の学芸員(2020年現在は館長)であられた谷晃先生から教わった、茶の湯にまつわる話を少し書いてみたい。

   茶の起源は今から3000年前と大変古い。中国の漢、今の雲南省当たりから世界へ広がりはじめ、南ルートはC音(チャ)の音で伝わりアジア諸国語でチャイや日本語の茶(ちゃ)となり、北ルートはT音(ティー)で英語のTeaやフランス語のThe(テ)になったそうだ。 日本には遣唐使によって、蒸した茶葉を団子のように固めたものとして茶が伝わり、その後煮出したり煎じたりする飲み方に変わっていったが、1200年頃から「点(た)てる」という表現が用いられる飲み方(茶葉を粉末にして湯とかくはんする飲み方。茶の湯の原点)が台頭し、1300年頃には庶民の間で歌を詠んだり、わいわいガヤガヤと話をするために集まる「数寄(すき)雑談」が流行り始めた。この数寄雑談が少しずつ形式ばったセレモニーのようになり、茶数寄や侘(わび)数寄に形を変え、16世紀には現代にみられる茶室や茶道具などで茶を味わう茶の湯が完成していたといわれる。

   授業では千利休の孫にあたる千宗旦が建て、今でも現存する茶室である今日庵(こんにちあん)に特別に入ることを許され、当時の侘び茶文化を学ぶ貴重な機会を得た。「茶室に入るのには足袋か靴下を履いて下さい」と事前に言われていたため、靴下を持っていったが、茶室で履く足袋や靴下の色は白でなければならないのを全く知らなかった私は黒の靴下を履いて、一人だけずっと気まずい思いをしたことを今でも覚えている。

   さて、茶事(または茶会)に行かれたことがある方々はご承知であろうが、正式な茶事などでは茶室で懐石料理が振舞われる。「かいせき」はまた別の漢字で「会席」と呼ばれることもあり、茶会に関連しない料亭や割烹などではこちらの呼ばれかたの方が多いが、もともと質素倹約で修行にあたっている禅僧がおなかに石をあたためておくと空腹感が紛れるという意味の「懐石」が18世紀初頭から使われ始めた方が古い。今の時代では懐石料理を食べようものなら料亭などではランチでも5000円はするほど高級であるため、私自身は滅多に口にすることはないが、本来懐石料理は、旬の食材(すぐに手に入るもの)を極めてシンプルな味わいで出される質素な料理なのである。ところが、食材や香辛料は質素極まりないにもかかわらず、料理は一つのストーリー仕立てで一皿ずつ出てくる。基本的には11皿(初膳→向付(むこうづけ・オードブル)→柳に毬(まり)→向付2品目(煮物)焼き物→汁→八寸→強肴(しいざかな)1品目→強肴(しいざかな)2品目→焦し・香の物→菓子)の順番で出されるのであるが、どれもこれも極めて人の手が込んでおり、一皿ごとに盛り付けも美しく、食べてしまうのがもったいないほどの見映えである。ようするに懐石料理とは豪華な食材を味わうのではなく、作り手の手間ひまかけた時間を食するのだ。 質素な食事とはいえ、それを用意する料理人たちは交通手段も物流システムも乏しい時代に走り回って食材を買いに行った。その手間をかけて丹精につくられた料理を食べる側としては、感謝を込めて、「私のために走り回って頂き、ありがとうございます。ご馳走に預からせて頂きます。」となる。 ご存じのように英語で料理のことをCookingというが、語源はラテン語で「調理する、焼く」の意味であるが、日本語の「料理」には、作り手のひたむきなもてなしの心という無形の価値が含まれていると思う。

   懐石料理は、むやみな殺生(せっしょう)はせず、必要なものを必要なだけを、心からのもてなしを込めて共に味わう、という生態系にも人とのコミュニケーションにも優しい日本が育んだ文化に根差したものであった。そのことを改めて思い起こし、ステイホームが日常的な現在、家にいてもできる限りの「質素な贅沢」を味わいたいと思う。

   農林水産省によると、いま全世界で年間廃棄される食品廃棄物は13億トンに達している。この食品ロス問題は、国連、EUなどをはじめ各国がSDGsターゲット中12.3で「2030年までに小売り・消費レベルにおける世界全体の一人当たりの食料の廃棄を半減させ、収穫後損失などの生産・サプライチェーンにおける食品ロスを減少させる」の目標を掲げ取り組んでいるところである。実現できるかできないかは、いま私を含め、地球上で暮らす一人ひとりの努力にかかっている。

パンチョス萩原